寿公園は、西宮市の東部、阪神・鳴尾駅から北へ200メートルほど離れたところにある小公園で、西宮市発行の『平成25年版 西宮の公園・緑地』によれば1954年(昭和29年)、区画整理事業に伴って設置されたとなっています。
鳴尾地区は、1951年(昭和26年)に西宮市に編入されるまでは鳴尾村だったので、3年ほどの期間が飛んではいますが、鳴尾村時代から計画されていた公園ではなかったかと思われます。
なぜそこが気になったのかと言うと、公園の中に高さ4mくらいの銅像台座があるのですが、それの解説板に「(戦時中に解体されたものが)鳴尾村決議により、寿公園に台座のみが復元され」たと書かれていたからです。
すなわち、鳴尾村時代に「台座を復元すべし」と決議され、その場所として寿公園が選ばれ、西宮市に編入後に工事が完了して開園したとすれば時代が揃うかと考えたのです。
■現地の解説板より『顕彰碑台』
この台の上には、多年鳴尾村に貢献された辰馬烈叟(転記注釈:彫られている通りだと「臼」の下に「又」という字)翁の乗馬像があったといわれ、もともとは鳴尾町2丁目付近に建てられていました。
昭和17年の金属の供出により銅像が失われ、建物疎開の時には解体撤去されていました。
その後鳴尾村決議により、寿公園に台座のみが復元され現在に至ります。
いわばこの台座は鳴尾の歴史を語るものと言えましょう。
烈叟辰馬半右衛門は、鳴尾で江戸時代から酒造業や廻船業も営んでいた辰馬家(鳴尾)の明治時代の当主です。
代々鳴尾村で事業家として力を持っていたこと、後代には鉄道誘致や学校建設など村の発展に力を尽くした当主が出たことなどが背景にあると思うのですが、鳴尾村の人々によほど敬愛されていたのでしょう、肝心の銅像がないまま一度解体された台座だけを復元するというのも珍しい話です。
その時は「先に台座だけ復元して、もう少しお金が貯まったら銅像も」などと考えられていたのでしょうか。
さて、現在の寿公園は、1987年(昭和62年)に「花の名所づくり」として再整備されたもののようで、サンシュユ(山茱萸)の咲く公園になっています。
ちょうど訪れたのが初春の花の時期で、満開にはやや時期がずれてしまったのですが、それでも小さな黄色い花が咲くのを楽しむことができました。
サンシュユの植栽の近くには、それにちなんだ歌碑も設置されています。
西宮市内に「花の名所づくり」で整備された公園は多いのですが、ここまで凝っているのは少ないと思います。
遊具については、公園の中央に築山を使った大きな砦遊具が中心になります。
サンシュユやツツジなどの植えられた築山に、木材をふんだんに使った櫓、コンクリート研ぎ出しの滑り台、トンネルなどが組み合わされ、近年の公園遊具と比べるとワイルド感が強く出ています。
樹々が育ち、遊具でありながら山の景色になっているところが良いですね。
滑り台そのものは、単独でも成立する自立型の人研ぎ滑り台です。
長年の間に頂上部分はかなり土が削れているので、たまには盛土を足してあげたい気もします。
見たところ主要部に極端な劣化はないのですが、木造部分の管理と更新が長持ちの鍵になってくると思います。
また、滑り台の下にある砂場は、縁がすべてベンチにも遊び台にも使えるようになっています。この長さは、子供達が色々な遊びを思いつきそうです。
この山のそばから凝った作りの流れがつくられており、小さいながらも趣のある景をなしています。訪ねたのが春先だったので夏場の様子がわかりませんが、水遊びができるものなのでしょうか。
そして、公園の東隅の方には唐突に2つの石碑が置かれています。
ひとつは明治のもので「道巾九尺」と書かれており、もう一つは大正のもので「道路改修長 19長54間」となっています。
内容からして、古い時期の道路整備・改修の記念碑で、おそらく昭和の区画整理などの際に、それまで近くの道路に設置されていたものが行き場所を失って公園内に運び込まれたのではないかと思われます。
冒頭の復元台座と比べると地味ですが、地域の歴史を色々と飲み込んでいる寿公園でした。
(2014年3月訪問)
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