日本の都市公園は約10万ヵ所。その1/100なら行けるだろうと思って始めた覚え書きですが、1000ヵ所を超えても続いています。揺れる動物も集めています。

2013年11月26日

515/1000 宝来公園(東京都大田区)

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現在は高級住宅街として知られる田園調布ですが、開発を企画した渋沢栄一たちは必ずしも「高級」を志向していたわけでもなく、19世紀末のイギリスで提唱された田園都市(田園と都市の両方の特徴を持ち、住宅と庭、公園などが調和した町)の思想を取り入れた住宅地をつくろうとしたものです。

こうした町の環境を維持していくためには、住宅の庭(私的な緑)や生垣(中間的な緑)とともに、公園・街路樹など公共の緑が欠かせないことから、住宅開発と同時に町外れにあった林が広場として整備・開放されたことが、現在の宝来公園の始まりです。
園内の解説板によれば、はじめに整備されたのが1925年(大正14年)、東京市(当時)に寄付されたのが1934年(昭和9年)、公園として開園したのが1936年(昭和11年)だということです。

●宝来公園の由来
本公園は、多摩川の沿岸旧荏原郡下沼部落の丘陵に位置し、附近は、亀甲山古墳を始めとする多くの遺跡に富んでいます。園内には、梅、桜をはじめ、クヌギ、シイなど、約70種1500本の樹木が繁り四季折々の自然の美しさは、今も、武蔵野の面影を残しています。
大正14年、田園調布の開発に際し、武蔵野の旧景を保存し永く後世に残すために、田園調布株式会社は、街の一角の汐見台の地を公園用の広場として残しました。その後、田園調布会に贈られ、昭和9年10月、当時の所有者、田園調布会より、東京市に寄付されました。東京市は、当時の金で一万円を投じて整備を行い、昭和11年4月「宝来公園」として開園されました。そして、昭和25年10月1日に大田区に移管され現在に至っています。
昭和61年2月 大田区


それにしてもこの解説板、よくある話ではありますが、区役所のHPに掲載されている内容と見比べると、経緯や年月日などが食い違っており、読む人を悩ませてくれます。

●大田区役所のHPより引用
この公園の前身は大正14年、武蔵野の旧景を保存し永く後世に残すために、田園調布会が街の一角の潮見台の地を広場としたことからはじまります。
後のちの昭和9年田園調布会から東京市に寄付され、造成整備の後、昭和19年4月『宝来公園』として開園しました。区への移管は昭和25年10月1日です。

http://www.city.ota.tokyo.jp/shisetsu/park/hourai.html

さて現在の宝来公園。田園調布駅から南西方向に、美しいイチョウ並木を通り抜けたところにあります。
下の写真で見れば、奥の方にある樹が低く見えるのでわかるように、高台の外れにある緩い斜面地と、その下にある池周辺が公園に含まれており、開園面積は約1.2haです。

斜面地の大部分は、この写真のような雑木林で、林床はササを繁らせて管理しており、無暗に立ち入れないようになっています。
斜面地なので土が流れ出ないようになどの理由があるとは思いますが、ここまでササが茂ってしまうと雑木林の林床に咲く花などは期待できないので、景観面・環境面も考え合わせると痛し痒しかなぁという気もします。公園内で場所を限って、高木伐採と林床の手入れをおこなってみても良いと思いました。

林を縫う園路沿いに広場や休憩施設などがあります。
年代物の噴水は、水の中に落ち葉が溜まって見苦しくなっていたので、少し掃除した方がよさそうでした。それでも、ちゃんと水が噴き出している分だけ世に数多ある止まったままの噴水よりは随分マシですが。

古い公園だけに、いわれのよく分からないものもあります。
この標柱は、広場の一角に唐突に建てられていますが、もしかすると80年前には公園の出入口にあったものかも知れません。

旗立台らしきものも。
径から見るに、かなり大きな旗が立てられそうです。

とある出入口の門柱。みごとにモジャモジャです。

谷の下側にある池の景色はこんな感じ。なかなか落ち着いた、よい雰囲気の池です。

修景・休養の要素が強い公園ですが、いちおう池のそばには小さな遊具広場もあります。

大田区による公園紹介ページ
社団法人 田園調布会

(2013年8月訪問)

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