377/1000 天保山公園(大阪市港区)

2013/06/14

身近な公園 盛土山 大阪市港区

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江戸時代も終わり近くなってきた頃、大阪を流れる安治川では堆積した土砂で船が通りにくくなったことから「御救大浚(おすくいおおざらえ)」と呼ばれる大規模な浚渫工事が、1831年(天保2年)から2年間、のべ10万人を越える人員を動員しておこなわれました。この時に出た浚渫土を18mにも積み上げたのが天保山(当初は目印山と呼ばれた)です。
天保山公園(大阪市港区)

この浚渫費用は幕府の調達だけでなく、大商人から市井の町人までが寄付金を出し、さらに連日、数千人の人足が町ごとのお揃いの衣装に身を包み、幟を立てた舟に乗って、鉦・太鼓で囃しながら川を進むという、一種のお祭り騒ぎのような大イベントであったということです。

と、資料ではよく読む話なのですが、川の浚渫が何故そんなにお祭り騒ぎになったのかはよく知りません。
時期的には町人文化の栄えた文化・文政時代を過ぎ、過去最高の参詣者があったという文政のお陰参り(お伊勢参り)の翌年、また江戸三大飢饉の一つである天保の大飢饉が全国を覆う前(天保3年頃には東北地方はすでに飢饉になっていたとも聞きますが)ということで、なんとなくバブル崩壊前夜みたいに世間が爛熟して浮かれた感じになっていたのでしょうか。

まぁそのあたりの歴史的な背景や資料は色々と紹介してくれているサイトがあるのでそちらにお願いしましょう。

大阪市立図書館 Webギャラリー『天保山に遊ぶ』
大阪歴史博物館 天保山と築港の歴史

さて、天保山はその後、遊興地として栄えたり、幕末になって砲台設置のため削られたり、砲台が廃止になって一帯が海浜レジャー施設になったり、周囲がさらに埋め立てられて港が広がりレクリエーション地としては下火になったりと紆余曲折を経て、今は天保山公園の一部となっています。
現状はこんな感じ。
天保山公園(大阪市港区)

「え?どこよ?」と思われた方は、こちらの拡大画像をご覧下さい。
巨大な石碑の横で、熱心に解説板を読んでおられる男性達の足元、小さな四角が見えると思います。これが標高4.53メートル、天保山山頂の二等三角点です。
人呼んで「日本一低い山」。大阪では人気の観光スポットであり、この日も多くの人が訪れていました。
天保山公園(大阪市港区)

公園の中には、山頂とは別にもっと高い築山もあります(麓からの比高でざっくり12~13メートルくらいはあるでしょうか)。
よく知らずに訪れる人は、こちらの築山を見て「さすが日本一低いと言うだけあるね」と驚くのですが、その奥のさらに低い場所が山頂だと聞かされて2度驚くことができます。
天保山公園(大阪市港区)

築山の頂上はきれいな広場になっているのですが、周りの樹が大きく育っているため、海を眺めることはできません。
天保山公園(大阪市港区)

公園内の標柱には「天保山跡」と書かれています。
今も天保山はそこにあるので若干の違和感を覚えますが、これは史跡の標柱なので、もともと天保山と呼ばれた江戸時代の山はなくなっているということで「跡」なのでしょう。
天保山公園(大阪市港区)

公園内には遊具広場もありますが、とくに港や舟をイメージしたような遊具はなく、ごく普通のものです。
天保山公園(大阪市港区)

海にちなむものとしては、明治の頃に大阪築港事務所長として近代的港湾の建設に尽力した西村捨三翁の像。工事は非常に困難を極め、捨三翁も志半ばにして病に倒れたそうです。
天保山公園(大阪市港区)

ところで、二等三角点の隣に建っていた巨大な石碑は「明治天皇観艦之所」の碑。
1872年(明治元年)におこなわれた日本初の観艦式を記念するものです(建てられたのは1929年)。
天保山公園(大阪市港区)

この塔を含めた公園全体を、天保山-桜島を結ぶ渡船の上から見てみると、現・天保山はもちろんのこと、公園の築山よりも石碑が公園内で一番高いようです。
う~む、さすがは現人神。ほかより低いというわけには行きませんでしたか...
天保山公園(大阪市港区)

ちなみに大阪市内に8つ残る渡船のうち、天保山の渡船はいちばん海に近く、かつ両岸とも鉄道駅に近いため、ちょっとした観光気分で乗るのに人気のある路線です。
この日も自転車ポタリングの方々で賑わっていました。
天保山公園(大阪市港区)
天保山公園(大阪市港区)
天保山公園(大阪市港区)

(2013年6月訪問)

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