花園公園は、台東区立台東病院の横にある小公園です。
台東病院の敷地には、もともとは吉原病院といって、1911年(明治44年)に吉原遊郭の娼妓向けの性病専門病院として、警察庁の手により開設された病院がありました。
本ブログでよく参照している日文研の所蔵地図データベースで1920年(大正9年)の『東京全図(便覧社)』を見ると、水路に囲まれた新吉原(吉原)の左上、この地図の方位では南西側に吉原病院の名が見えます。おおむねこの敷地内に、現在の台東病院、千束保育園、花園公園が含まれています。
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1920年発行『東京全図』/国際日本文化研究センター所蔵より |
江戸時代には、吉原の周囲には堀と柵が築かれて、出入りは大門(吉原大門)に限定されていたわけですが、明治以降は堀は残るものの、いくつか橋が架けられるようになりました。
メインストリートである仲ノ町通りを貫く道は、その中でも早くに改善されたと思われ、明治の頃には吉原弁財天を含めた一帯が「新吉原公園」として行楽地になっていたようです。
その後に関東大震災、戦災などをくぐり抜け、どのような土地利用の変遷があったのかは分かりませんが、1968年(昭和43年)に区に買収されて翌年に現在の花園公園が開設されました。
さて園内。都心に雪が降った後に行ったもので、いくらか雪が残っています。
総合病院の隣ということでお年寄りの利用も多く、この日は雪が残っているのにも関わらず、たくさんの人が公園内で休憩したり談笑したりしていました。
すぐ隣に保育園があるためか全体的には遊具が充実した児童公園仕立てになっており、小さめの複合遊具、ブランコ、ティーカップ的な回るチューリップ?などがあります。
2つの滑り部を持ち、デッキ・階段を共有するタイプの滑り台はよくあるのですが、ここのものはわずかながらに鉄棒がくっついているので、複合遊具とみなします。
回る椅子は、自分ひとりでは回せないので、友達に回してもらう必要があります。そういう意味では、協調性を育むのに良い遊具だと思うのですが、近年は徐々に数を減らしています。
公園の出入口には、No.219の万行童夢公園で見かけた「魚の頭型」の車止めがありました。高知で見かけたときは「高地名物カツオ型」と思いましたが、どうやら違ったようです。
また、公園のすぐそばに、すこし気になるおもちゃ屋さんがありました。
子連れで遊びに行く時は便利かも知れません。
ところで、上の方で話に出た「吉原辨財天」は、花園公園から東に道を渡ったところにあります。そこにある池は、現在は申し訳程度の小さな池ですが、もともとは江戸時代に吉原田圃を埋め立てて遊郭を作った時の名残で、戦後しばらくまでは、もっと大きな池が残っていたものが、昭和34年(1959年)に埋め立てられたそうです。
関東大震災の折には、この池に逃げてきた遊女が多数溺死する事態になったそうで、辨財天には今も弔いの花が絶えることがありません。
■現地の案内板より 『新吉原花園池(弁天池)跡』 台東区千束3丁目22番
江戸時代初期までこの付近は湿地帯で、多くの池が点在していたが、明暦三年(1657)の大火後、幕府の命により湿地の一部を埋め立て、日本橋の吉原遊郭が移された。以来、昭和33年までの300年間に及ぶ遊郭街新吉原の歴史が始まり、とくに江戸時代にはさまざまな風俗・文化の源泉となった。
遊郭造成の際、池の一部は残り、いつしか池畔に弁天祠が祀られ、遊郭楼主たちの信仰をあつめたが、現在は浅草七福神の一社として、毎年正月に多くの参詣者が訪れている。
池は、花園池・弁天池の名で呼ばれていたが、大正12年の関東大震災では多くの人々がこの池に逃れ、490人が溺死するという悲劇が起こった。弁天祠付近の筑山に建つ大きな観音像は、溺死した人々の供養のため大正15年に造立されたものである。昭和34年吉原電話局(現在の吉原ビル)の建設に伴う埋め立て工事のため、池はわずかにその名残を留めるのみとなった。(平成10年3月 台東区教育委員会)
(2013年1月訪問)
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