1)まず少々読みにくい公園名は「もみじがわしんとみばし」と読みます。
「楓」と書いて「もみじ」と読ませることは構いませんが、江戸時代にはもう一つ「紅葉川(もみじがわ)」というのもすぐ近くにあったそうで、紛らわしい限りです。
2)楓川は江戸時代につくられた堀割で、1964年に埋め立てられて首都高速になりました。
でも、江戸末~明治の地図によれば、この橋のやや北側までが楓川で、現在の橋があるあたりは陸地になっています。どうも首都高速を造る時に楓川と築地川を使おうとして、その間にあった陸地を200~300mほど掘ったような気がします。
はっきりとはわかりませんが、「楓川新富橋」とは言うものの、この橋の下はただの首都高速で楓川は通っていなかったのではないでしょうか?
3)No.133の京橋公園方面から東に向かってこの橋を渡ると新富町なので、橋の名を新富橋というのだと思います。ただし、明治の頃までは東側にある入舟町から渡ってくる別の場所に新富橋がありました。これも紛らわしい。
4)現在の公園ですが、高速道路を跨ぐ橋の上にあるにも関わらず、道路幅に対して公園が広すぎます。道路の倍くらいはあるでしょうか。もしかすると将来的に道路拡幅の計画がある場所かとも思いましたが、資料にあたってみるとそうでもなさそうです。
どうして首都高速をつくる時に、わざわざこれだけの幅の橋を架け、さらに2/3を公園にしたのか。ちょっと理由が思いつきません。
Googleマップより切り出し。中央を東西(左右)に通る道路の下側(南側)が公園 |
そういうわけで謎は多いのですが、藤棚やバラ園などがあって、建て込んでいる市街地では貴重なオープンスペースになっています。
50年くらい前の担当者の方々も、こうなることを見越して公園用に橋上の敷地を確保したのかもしれません。
公園ほぼ全景 |
公園の木々の隙間から首都高速 |
上記事中の2)については、毎日新聞のサイト「昭和毎日」で謎が解けました。
返信削除>http://showa.mainichi.jp/ikeda1960/2008/05/ik008800.html
橋の上から運河を眺めた1961年(S36)撮影の写真が掲載されており、記事には「楓川・築地川連絡運河。1930年に帝都復興事業として、後の首都高・京橋JCT付近と中央区役所付近の間が掘割された。新富橋から三吉橋方向の眺め。右岸は銀座東1丁目(後の銀座1丁目)。左岸は新富町3丁目(後の新富2丁目)。後方正面は築地1丁目の中央区役所。後に楓川・築地川連絡運河は埋め立てられ、首都高速道路都心環状線になっている。」となっています。
また3)については、このサイトに1956年の地図も出ているのですが、それで見ると両岸の道路と橋とが若干ずれた位置で記されています。どうもその時点での橋の位置が現在の公園にあたり、その北側に現在の橋ができているようです。
こちらはまだ結論は見えないので、機会があれば追々と調べていきたいと思います。