北谷町にある伊礼原(いれいばる)遺跡は、平成年代に行なわれた米軍基地の一部返還に伴って詳しい調査が実施され、縄文時代からグスク時代、沖縄戦前までの約7,000年間の人々の生活址が確認されたことで、2010年(平成22年)に国史跡に指定されました。
この遺跡の一部が屋外展示空間として保存整備され、横に新設された町立博物館ともども2025年(令和7年)に全面開業したので、見に行ってきました。
■現地の解説板より「伊礼原遺跡(いれいばるいせき)」
伊礼原遺跡は、縄文時代前期から晩期の集落跡です。この遺跡は、米軍基地返還後の調査によって1997年に発見され、2005年まで発掘調査が行われました。
遺跡からは、県内初の櫛や最古となる笊などのほか、ヒスイや黒曜石など他地域との交流を示す品々が数多く出土しました。また、大量の動物の骨や植物など、当時の生活の様子や自然環境を知るうえで重要な発見も相次ぎました。
これらから伊礼原遺跡は、縄文時代における日本列島本土との交流を考えるうえで極めて重要であり、奄美・沖縄地域を代表する拠点的な集落遺跡であると位置付けられ、2010年に北谷町で初めての国指定史跡になりました。
博物館や駐車場を除いたオープンスペースは、ざっと1.7ヘクタール。現在の史跡指定の面積とほぼ同じですので、整備を前提として史跡指定・用地公有化を進めたものと思われます。
敷地の東端、駐車場の横にある、戦前の集落にも使われていたフクギ並木を抜けてオープンスペースへと入ります。
■現地の解説板より「旧伊礼・桑江集落のフクギ」
このフクギは、戦前の伊礼や桑江集落の屋敷まわりに植えられていたものを移植したものです。
フクギは古くから防風林や防火林、土地の境界の目印などとして利用され、そのまっすぐに伸びる樹形は特有の並木風景をつくり出していました。 最近ではフクギの代わりにコンクリート塀が使われるようになるなど、フクギ並木を見かけることは非常に少なくなりましたが、本部町備瀬や今帰仁村今泊などには現在も古くからのフクギ並木がのこされています。
オープンスペースは、大きくは4ブロックに分かれます。
1つめのブロックは、縄文住居の跡地を含む縄文広場。積極的に遊び空間としてのPRはされていませんが、実態としては一面の芝生広場なので遊び放題です。
博物館前の盛土丘から見下ろしてみると、中央付近に、なにか地面の様子がちょっと違う場所があることに気づきます。
なんだろう、歪な曲線が描かれて、そこだけ芝の状態を変えてあります。
現地の全体案内板には、手前側に2つある膨らみが「炉跡」、奥の広がっている膨らみが「住居跡」だと書かれていたのですが、これを見ただけではそこまでは想像しづらいところです。けっこう色んな遺跡の復元・展示整備を見てきたから、この分野の想像力は多少はあると自負しているのですが...
でも、三角コーンが置いてあったり、標識杭が打たれたままになっていたりするので、全体が入れるようにはなったものの、この部分はまだ整備途中なのかも知れません。
それは2つめのブロックである「縄文の森」の様子からもうかがえます。園路は通れるのですが、斜面部分にはブルーシートが敷かれて整備途中だと分かります。造成工事までは終えたけれど、森にするための植樹が追いついていない様子です。
多分これから、イタジイやオキナワウラジロガシなどの沖縄風の照葉樹を植えるのではないかと思います。
ちなみにブルーシートの奥に見えている森は、遺跡としての範囲が続いているはずなのですが、現状ではまだ米軍基地に占拠されているので調査ができず、フェンス越しに眺めるしかできない箇所です。
3つめのブロックは「湧水と湿地環境」。
遺跡は、森が続いている丘陵からの水脈が顔を出す湧水から、海岸方向へと広がる狭い低地に立地しているので、この湧水こそが、古代の人々が定着した最大の理由だと言えます。
近代的なカーとしての構造物も見えたので、沖縄戦に伴って米軍に占領されるまでは、集落で使っていたのかも知れません。
もう少し近寄ってみたかったのですが、「ハブ注意」の看板が怖くて、遠目からの観察になりました。
■現地の解説板より「縄文時代から湧き続けている泉(ウーチヌカー)」
沖縄島中部の西海岸は、湧水が豊富な地域として知られ、古くから湧水を利用した生活が営まれていとなきました。
水が湧くしくみには地層との関係があり、沖縄島、 中南部の地層は一番深い層から順に、泥岩(クチャ)、 砂岩(ニービ)、石灰岩と層をなしています。
地面に降った雨水は、水をよく通す石灰岩や砂岩の層を通過し、水を通さない泥岩層の表面を流れ、 泥岩層がむき出しになっている地層の割れ目などから湧き出ます。
北谷に暮らした縄文人もウーチヌカーの水を利用していたようです。
湧き出た水は、園内に整備された自然風のせせらぎを流れていきます。
■現地の解説板より「湿地に埋もれた縄文の植物」
縄文時代、ウーチヌカーと呼ばれる泉周辺には湿地が広がっていたことが発掘調査からわかりました。この湿地の泥の中には縄文時代に生えていた植物が腐らずに埋もれていました。この植物を調べると、右手の丘陵側にはドングリを中心とした森が広がり、その麓にはウーチヌカーを中心としたマングローブ林が広がっていたことが明らかになりました。
この小川の周辺には当時の雰囲気を再現する、遺跡から出土した湿地を好むサガリバナやサキシマスオウノキを植栽しています。
せせらぎが地下に流れ出して途切れるあたりには、海岸に多いアダンなどの植物が植えられています。
その茂みを抜けた先が、4つめのブロック「縄文の海」。ほかの3ブロックは博物館を中心にして囲むように配置されているのですが、ここはどちらかと言えば、前面道路と結びついた街角広場のような存在です。
湧水から海岸までの距離は思いほかに近く、住居跡も海岸が目の前の低いところにあったことに驚かされます。
現地保存されているビーチロックも、ベンチ代わりになる、ちょうどよい位置にあります。
■現地の解説板より「縄文時代の海岸線を今に伝えるビーチロック」
ビーチロックとは、海岸の砂が炭酸カルシウムの化学反応によってセメントのように固まった岩です。 主に波打ち際に形成され、沖縄では板干瀬と呼ばれています。このビーチロックは、1995(平成7)年から始まった米軍基地返還に伴う発掘調査で、目前の道路周辺の地中から発掘され、約4000年前から2500年前の縄文時代に形成されたことがわかりました。この時代、道路からここに置かれているビーチロックあたりに波打ち際があり、伊礼原遺跡の目前には海が広がっていました。
いっそここに、バス停があればなお良いのですが。でも日除けを付けられないから、暑すぎるか。
案内用のピクトグラムは、もひとつわかりにくい伊礼原遺跡でした。
(2025年11月訪問)





















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