その昔、現在の神戸市東灘区深江あたりの西国浜街道沿いに、「踊り松」と呼ばれる名所があったそうです。おそらく人が踊るようにグネグネした樹形をしていたのではないかと思われ、江戸時代の地誌などに紹介されて昭和初期までは残っていたようですが、周囲の都市化が進む中で姿を消し、どこにあったのかもはっきりしなくなっています。
ただ、一本だけの単木・名木だったわけではなく、高橋川の河口そばの松林がそう呼ばれていたようで、現在の河口付近にある小公園が、踊り松市民公園と名乗って、わずかに名残をとどめています。
国道43号に架かる橋上から、公園を眺めるとこうなっています。高潮避けの背の高い堤防と水門、マンションとに囲まれた敷地を、かろうじて認識できます。公園の先に見える橋が、かつての西国浜街道ですので、「高橋川の河口そば」という条件は満たしています。
ここから東に1ブロック離れた大日霊女神社の境内に解説板があるのですが、江戸時代の俚謡に”深江越えれば大日如来 高い高橋踊り松 銚子が池に片葉葦”というのがあるそうなので、踊り松以外にも、いくつか名物がまとまっていたようです。
国道43号から、公園内へ下りていきます。
ちなみに神戸市の条例に基づく「市民公園」は、民間または公共の土地を期間を定めて市が無償提供を受け、簡単な施設整備を行なったうえで市民に開放しているものです。いわば期間限定の簡易的な公園ですが、ここの場合は河川管理施設の敷地を使っていると思われます。
遊具は2連ブランコ、滑り台、鉄棒、砂場など一通り揃っており、ベンチもあるので、児童公園としての体裁を取っています。
なお、植栽にはマツは無く、先程は「わずかに名残をとどめています」と書いたものの、実際は”名前だけ踊り松”状態です。
奥に見えている阪神高速道路の高架の真下を国道43号線が通っています。「阪神第2国道」とも呼ばれ、大阪-神戸を結ぶ幹線として、元々は全10車線の広幅員で通されており、あたりの風景を一変させた道路です。
踊り松が姿を消した理由としても、これの影響があったのではないかと思います。
この付近では、2018年(平成30年)の台風に伴う高潮被害が出ており、その対策として堤防の嵩上げなどが実施されました。
しかし、橋の架替えまではできないので、そこを塞ぐためのスライド式可動壁が公園北端に作られています。
旧・西国浜街道の橋(深江橋)の両側で、レールに沿って堤防と同じ高さの可動壁が閉まることで、高潮の溢水を防ぎます。
橋の向こうにお地蔵様が見えるので、行ってみます。
でも近づいてみると、お地蔵様は中央奥の一体だけで、そのほかは小ぶりな五輪塔ばかりのようです。
■現地の解説板より「踊り松地蔵」
むかし踊り松あたりに散在していた石仏や五輪塔などを、付近の市街地化にしたがって、旧西国浜街道が高橋川を渡るこの地に集め、まつっている。大部分が近世の一石五輪塔である。
さて、そんなわけで、昭和初期まではうっすらと踊り松の松林が残っていたものが失われて場所がはっきりしなくなったことから、市民公園やお地蔵様から少し離れたところにも、踊り松関連のアイテムが作られています。
こちらは、市民公園から西へ100メートルほど離れたところにある「踊り松の碑」。
関わった方々の思いや諸事情はさておき、記念碑を建てるなら、横に植えるのはクスノキではなくマツにすべきでしょう。
■踊り松
昔この辺りに松の木があり、『摂津名所図会』に「芦屋浦踊松」として紹介されていた。踊り松の名の由来については、森稲荷神社に関わる伝説など諸説があるが、はっきりしたことは分からない。『東灘歴史散歩」には、松の枝ぶりが踊るような姿であったことに由来するのではないか、と書かれている。その踊り松も地域の都市化の中で姿を消したが、神戸商船大学開学30周年の記念に、深江財産区の手でこの踊り松の記念碑が建てられた。
こちらは、さらに浜街道に沿って100メートルほど西に離れた市立本庄小学校の横にある「浜街道・なごりの松」。現地の解説板には”明治33年(1900年)になって本庄小学校が建設された時、運動場のはしに松の木が並んでおり、この松は、その当時をしのばせています”とあります。
とは言え、これが1900年当時に生えていたマツ(つまり2025年現在であれば樹齢130年以上)には見えないので、ここ40~50年くらいに植えられた、何代目かのマツだろうと思います。
結局、マツは姿を消して石碑や跡地ばかりになっているのですが、それだけに、期間限定の市民公園ではなく、恒久的な都市公園として「踊り松公園」に昇格して欲しい踊り松市民公園でした。
(2025年3月訪問)
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