姫路城のすぐ南にある播磨国総社・射楯兵主(いたてひょうず)神社は、播磨国風土記にも記載があるという古社で、60年に一度の一ツ山大祭、20年に一度の三ツ山大祭で知られます。
社殿も立派なのですが、西側の県道に面した総社御門(西門)も、5階建てマンションくらいの大きさがある立派な楼門です。
交通量の多い県道を渡らないと楼門の全体は見えないので、今回は真横から撮影。
で、ここから反対を振り返ると、参道の反対側に細い通路があり、その先に小さな総社公園があります。
でも行ってみると、出入口にいきなり、「血の池」と刻まれた大人の背丈よりも大きな石柱が建てられています。
園内に入ったら入ったで、こちらにも「血乃池趾」の石碑が建てられています。
なんだか怖いのですが、この公園としては、血の池がイチオシということでしょうか。
でも園内は小さなもので、いまは池などありません。
もともと、神社と関連の深い池があったものの、昭和の頃に埋め立てられて公園になったようです。
■現地の解説板より「血の池跡」
この辺りは本町遺跡と呼ばれ、播磨国衙の中心付近に位置する可能性が極めて高い。血の池はかつて市街地域を東北から南西に流れていた藍染川(青見川)の跡と伝えられ、池田輝政の築城の際城下の中濠内に取り込まれ、文化元年(1804)「播州名所巡覧図絵」には総社境内図の西方に「血の池」が描かれている。戦前は池の東に能舞台もあったが、昭和51年に埋め立てられ総社公園となった。かつて総社に人々が抜刀して踊り舞う「刀劍おとり神事」と呼ばれる旧暦七月の恒例行事があり、江戸時代には「踊舞神事」「修羅念仏」、江戸時代後半には「修羅踊り」「豊年踊り」と呼ばれた。その行事で傷を被った者が池で洗うと止血したとされたことが池の名称の由来という。(平成17年9月 姫路市教育委員会)
なるほどなるほど。
この広場分くらいが、かつての池面だったのでしょうか。
高度成長期、周りに公園が少なかった時には池を埋め立てて広場にすることを重要視したのでしょうが、お城の大手前には新しく大きな広場もできているし、時代も変わって地域の歴史的文脈を大切にすることも重要なので、血の池を復活させても良いのでは、と思った総社公園でした。
(2024年8月訪問)
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