3590/1000 数寄屋橋公園(東京都中央区)

2024/03/30

身近な公園 中央区 東京都

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かつて江戸城の外堀に架けられた数寄屋橋は、関東大震災後は帝都復興事業で作られた石橋となり、外堀が埋められ首都高速に姿を変えた現在は銀座地区の大きなスクランブル交差点の地名として名を残しています。この交差点にギリギリ面しているところに、数寄屋橋公園があります。

公園区域は道路を挟んで有楽町駅側(北側)と東急プラザ側(南側)とに分かれるのですが、面積が広くアイテムが多いのは、東急プラザ側です。

下写真は、東急プラザ側から橋があった付近を越して、有楽町駅側を眺めたところ。高架沿いに少し緑が見えるあたりがそうなのですが、今となっては、どこが道だか川だか公園だかを見分けるのは難しくなっています。

現地の石碑より「数寄屋橋の碑」

寛永6年(西暦1629年)江戸城外廊見附として数寄屋橋が初めて架けられた時は幅四間長三間の木橋であった。橋名は幕府の数寄屋役人の公宅が門外にあったのに依るという。
見附の城門枡形は維新の際に撤去され、ついで大正大震災後の復興計画によって完成を見た近代的美観を誇る石橋が銀座の入口を扼することヽなった。
爾来三十年首都交通の激増はこの界隈を更に変貌させた。外壕上を高架車道が地下には地下鉄が走るようになって橋も姿を消し、こヽは渾然たる大銀座の一劃となった。
本会は茲に旧橋の遺材を以て碑を建て感慨深い東京文化の変遷を偲ぶよすがとした。(1959年4月 数寄屋橋公園美化協力会)

有楽町駅側は幅広の歩道と一体化していてあまり公園らしさがないのですが、東急プラザ側は2010年代に隣接のビル建設とあわせて園内の全面的な改修が行われており、都心ならではの小さながらも盛んな利用が見られる公園になっています。

時代は移り、現在のシンボルは橋ではなく、岡本太郎の「若い時計台」。1966年(昭和41年)に、地元のライオンズクラブから区に寄贈されたものだそうです。
交通量が多い屋外に長く置かれているためか傷むことがしばしばで、でもシンボリックな作品なのでその度に補修されており、園内の再整備に合わせて以前は通りに面した公園の一番外側にあったものが、現在は逆に一番奥に置かれています。

しかし、緑の樹々に囲まれて彩りが映えるようになったとも言えますし、周りの樹木の方が大きいので時計台が目立たなくなったとも言える微妙な位置です。
なによりも、以前は後ろ側からも見えたのに(後ろにも顔がある)、これがほぼ見えなくなってしまったのは、けっこうマイナスポイントだと思います。

時計台の前から園内を見渡すと、こんな感じ。少し歩けば日比谷公園があるとは言うものの、有楽町-銀座界隈で公園といえばここしかないので、いつ通っても多くの人で賑わっています。

もう一つ書き留めておくべきは、公園ではありませんが、すぐ隣に建つ区立泰明(たいめい)小学校。関東大震災の後に復興事業として鉄筋コンクリート造で建てられた復興小学校の一つです。
復興小学校は、全部で117校ありましたが、統廃合や建替えで当時の校舎はほとんど残っておらず貴重な存在です。

震災時の大火災の反省に立ち、延焼を食い止める鉄筋コンクリート造の建物と、避難場所にもなる小公園とを組み合わせて整備するのが復興小公園の考え方で、被災地に52ヵ所の小公園が整備されました。
ただ、ここの場合は、学校も公園も震災前からあったものを再整備する形になったためか、復興小公園の中には数えられていません。

公園から小学校の校庭を覗き込めるのですが、これはこれで、街区公園っぽい姿でもあります。

小さいながらも色々ある数寄屋橋公園でした。

(2023年10月訪問)

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