沖縄本島中部西海岸の読谷村では、1943年(昭和18年)に日本軍による接収で飛行場が建設されたことに始まり、沖縄戦に伴って米軍により村域全体が占領され、嘉手納弾薬庫、ボーローポイント射撃場など多数の基地がつくられました。復帰後、徐々に返還が進んではいるのですが、まだ村面積の35%ほどが米軍基地となっています。
近年の返還で大きかったのは2006年(平成18年)の読谷補助飛行場、楚辺通信所の全面返還で、あわせて320haほどの土地が返還され、おもに農地として活用が進められています。
この返還跡地の西に隣接して、かつて石灰岩の採石場として使われていた土地があるのですが、その一部が緑化再生されたのがセーラの森公園です。
■現地の解説板より「セーラのムイ(森)づくり」
この場所は、セーラ(石廻原)という地名で、搭状石灰岩がそびえ、アダンや松の木が生い茂り、子供たちの通学や遊び場として利用され、自然豊かな憩いの場として地域に親しまれていました。現在、その面影は失われたもののかつての緑地回復を願い3つの方針を柱として「セーラの森公園」を整備しました。-3つの柱-
1) セーラの森づくり:自然回復
2) 夕陽と慶良間の景観づくり:眺望
3) 人々が安らぐ広場づくり:安らぎ
さて、上の解説板を読んで気になること。
石廻原は現在も小字名として残る地名ですが、沖縄風に素直に読むとイシマーシバルなので、解説板の”セーラ(石廻原)”という記載は読み仮名を書いているわけではなく、「イシマーシバルという小字のうちセーラと呼ばれた土地」ということかと読み取ります。じゃぁ”セーラ”ってなんだろうと思うのですが、子供の頃にみた名作アニメ・小公女セーラしか思いつきません。
わからないことは調べたいので、図書館で地元区発行の『都屋誌-字創設50周年』(都屋公民館)を読んでみたのですが、セーラと呼ばれる丘があるということ以外は書かれていませんでした。
また読谷村発行の『都屋ガイドマップ(2017)』には、「戦前、座喜味や波平に行き来したトゥヤーバンタの道やセーラの小高い岩山は緑豊かな松林が連なり風光明媚な場所であった」、「トゥヤーバンタとセーラ:トゥヤーバンタの東側一帯はセーラと呼ばれ、岩山が連なり、馬車が2台通れるほど広い座喜味からの主要道があった。都屋から読谷国民学校に通う児童たちは、毎朝岩山を仰ぎながら登校した。終戦直後は米軍の施設が造られ、その後採石場となりコーラルが採掘された。現在はセーラの森公園として整備され、都屋自治会が指定管理者となり青年会と合同で毎月2回清掃作業をおこなっている。」と、セーラという地名は出てくるのですが、いちばん知りたい「セーラ」という言葉の意味はわかりませんでした。
いつかは謎を解きたいものだと思いつつ、園内。
冒頭に登場した解説板のすぐ横から下の方を見渡すと、まずトラックのように整備された大きな芝生広場があります。園内は大きく3段に切り分けられており、この芝生広場が中段にあたります。
都屋集落の向こうには東シナ海。薄っすらと慶良間諸島も見えています。この時は曇っていますが、晴れていれば夕陽の景観が眺望できたことでしょう。
ちなみに解説板が設置されている上段は駐車場なのですが、その一角に舗装されたバスケットコートがあり、ブレイブボードなんかの遊びにも使いやすくなっています。
バスケットゴールの奥の方に見えている遊具は隣のインターナショナルスクールのもので、公園遊具ではありません。
大きな石段を通って、芝生広場へ下ります。
トラックのようになっている部分は、近くで見ると舗装や路盤が違うわけではなく、芝刈りの時に草丈を短めにしているだけのようです。それによって使う人が誘導されて踏み固められるために、また少しずつトラックが形作られるようです。
もっとも、カラー舗装された園路もあるので、ウォーキングなどの人は、トラックよりもこちらを使うことが多いだろうと思います。
人々が安らぐ芝生広場からさらに下りた下段は、遊具広場になっています。
ずば抜けて大きな遊具や変わったものはないのですが、複合遊具が3基と4連ブランコがあります。
メインになる複合遊具は、いくつかの滑り台をデッキでつなぐタイプのもので、それほどチャレンジな要素はないので小学校低学年くらいまでが楽しめるものかと思います。
デッキの内側にある樹脂膜製のパーツも、使い方としては滑り台なのでしょう。
ブランコの横には、赤い屋根の複合遊具。
さらに柵に囲まれた1~3歳児専用コーナーにも複合遊具があります。
このコーナーには上部にフレームのようなものが組まれていたので、日差しが強い時期には、簡易屋根が取り付けられるのかも知れません。
あと、下段のさらに突先にバードウォッチングステージと名付けられた一角があり、谷地の森を眺めることができます。「セーラの森」と名乗っていますが、はっきりとした森が形成されているのはここだけです。
と言うことは、こここそが公園整備の柱筆頭だった「セーラの森づくり:自然回復」のメイン空間であることに気づきます。園路が通じていないので公園区域外かと思い、ずっと上中下3段と言ってきましたが、谷地も加えて4段が公園の範囲なのかも知れません。
もっとも公園案内図にはまったく触れられていないので、ブログ作者の思い込みかも知れません。
色々と気づきや学びがあったセーラの森公園でした。
(2021年11月訪問)
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