2971/1000 岡公園(和歌山県和歌山市)その2

2022/04/01

山遊具 社寺御嶽 石碑めぐり 戦没者慰霊碑 和歌山県 和歌山市

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あまりにも見るべきアイテムが多すぎて一度の記事には収まらなかった和歌山市の岡公園。
昨日のその1では、歴史的な遺物や戦前くらいまでの人物に関わる記念碑などのアイテムを中心に見てきました。

その2では、おもに戦後のアイテムを見ていきます。
まずは大型の石の山遊具。私が知りうる限り和歌山市内限定で数点だけ存在するアイテムで、本ブログ的には和歌山市の公園のシンボルと言っても良いものです。

たいていの石の山遊具は高さ2~2.5メートルくらいまでで、普通の滑り台と同じくらいの高さなのですが、これは5メートルを越えています。頂上に一本足の屋根が付いているので、見た目にはさらに一回り大きく見えます。

頂上へ登る斜めはしご段を12時とすると、3時と9時の方向にそれぞれ滑り台が出ており、6時の方向は垂直壁にハシゴが付いてその下に小滑り台があります。
それぞれの間のところは、石やコンクリートの輪っかを埋め込んだガケ登りになっています。

現地に元々ある天然の岩を取り込んでいるあたりなど、真に「石の山遊具」と呼ぶに相応しい堂々たるものです。山の形も単純なものではなく、所々で尖ったり、削れたりしていて、下手に転落するとそこそこの事故になりそうなところも「山」です。
滑り台の横の手すりのようなものは、はじめは間にお尻を載せて滑るパイプ滑り台かと思ったのですが、それにしては幅が広すぎるので、手すりにして斜面を登るためのパーツだと思われます。

こちらの面では、山からマツが生えています。
遊具ができて50年以上は経つと思うのですが、マツはそれよりもさらに古いように見えるので、もともとあったマツをあえて遊具に取り込んだのではないかと思います。
以前にNo.1813 糯田公園で樹木も植えられた盛土山の一部を遊具にしているものを見ましたが、ここは完全な石の山に樹が生えているので、さらに一歩先に進んでいます。

こちらの面は、急斜面を鎖一本で登るようになっています。裾の広さに対して鎖一本というのが寂しい気もしますが、上がすぼまっているので仕方がありません。
色々とすごい遊具なのですが、こればかりにかまっているとまた記事が終わらなくなるので、少し先に進みます。

石の山遊具だけでお腹いっぱいなのに、隣には本当の石の山もあります。
その1で書いたように、この公園は和歌山城を築く際には石切場になったという岩山を使った公園なので、緑色片岩の露頭があちこちにあるのです。

特段に遊具として提供されているわけではないのですが、登ったり降りたりして遊ぶのに丁度よいサイズのものなので、子供たちは遊具代わりに楽しんでいるようです。

個性的なものばかりでなく、今日的な複合遊具もあります。

巨大な石の山はまだちょっと怖いという小さな子供には、こちらの方が向いているでしょう。

こちらは、一見すると8連ブランコですが、手前の枠だけ吊り輪になっています。

そして戦後、和歌山市は空襲からの復興で多くの都市公園が整備されるのですが、本ブログでいう「中央公園」、すなわち記念碑や銅像、記念植樹などの形で「町を代表する事物・できごと」が集まってくるシンボル公園としての役割は岡公園が担い続けています。
なかでも昭和の公園的アイテムといえば、蒸気機関車の静態保存です。

■現地の解説板より「私は蒸気機関C57119です」
私は昭和14年11月12日に三菱重工KKで生れました。その月の21日には大阪の宮原機関区に配属されたのを振出しに東京鉄道管理局の白河機関区・高崎第1機関区・大宮機関区を巡り、昭和24年5月4日から鹿児島機関区へ更に昭和31年11月4日より天王寺鉄道管理局の宇治山田機関区に行きました。昭和34年5月8日和歌山機関区に来まして紀勢線(当事の記勢西線)と和歌山線の沿線の皆様のために917.369.2km走りつづけ、昭和47年3月14日その役目を終りました。生れてから2564,698.8km走りましたので地球の赤道を60回以上回ったことになります。
このたび国鉄と和歌山市のはからいで和歌山操駅から80トンのトレーラに乗せられてお城の見える公園に安住の地を得ました。どうかいつまでも可愛がって下さい。
昭和48年2月11日和歌山市

解説文が一人称(自己紹介)で子供たちに語りかけるようになっているのは、公園で子供たちに見てもらうことを前提とした常套手段です。
また、各地の蒸気機関車の展示でも「どこで作られて、どこに配属されて、各地を転々として、地球を何周分走った(または月まで何往復)」という表現が使われていることが多いように思うのですが、当時、蒸気機関車を展示する際の紹介文のフォーマットみたいなものが出回っていたのでしょうか?

蒸気機関車だけでなく、1971年(昭和46年)まで走っていた市電車両も保存されています。

■現地の解説板より「和歌山を走っていた市電」
明治42(1909)年から昭和46(1971)年まで、和歌山市周辺では市街電車(市電)が走っていました。ここに保存されているのは、昭和38年に日立製作所笠戸工場(山口県)で製造され、廃線まで活躍していた321形321号車両です。
製造された7両のうちの1つで、鋼鉄製車体の定員80名(着席定員32名)と当時としては大型の車両でした。コイルバネ式の台車を使用しているため、乗り心地はよかったといいます。
記念保存用に和歌山市に寄贈したいと南海電気鉄道(株)から申し出があり、昭和46年にこの場所に設置されました。廃線後、ほとんどの車両が処分されたため、現存するのは、海南市室山団地の公園内にある321形322号とこの車両のみです。

解説文によれば8年しか使っていないのに廃止になり、その後50年間ここで展示されていることになるので、若隠居と言うにも随分とバランスの悪い人生です。

こちらは公園の南端にある武徳殿(武道場)。建物は明治のものだそうですが、1961年に公園内に移築され、いまも現役で使われています。

堂々たる武道の館の玄関先には、なぜかウサギの置物が。
なにかの武道の教えなどの意味ありげにも見えますが、その1で登場した紀州徳川神社のカオスを思い出す要素もあります。

ほかにも移築された武家屋敷の長屋門、茶室等々、このブログには書ききれなかったものも含めてアイテムが多すぎ、変遷過多な岡公園でした。
いや、ホントにだれか資料を集めて論文書いてくれないかな。

(2021年12月訪問)

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