2971/1000 岡公園(和歌山県和歌山市)その1

2022/03/31

山遊具 社寺御嶽 石碑めぐり 戦没者慰霊碑 和歌山県 和歌山市

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和歌山城址の東南側に隣接して、1895年(明治28年)に開かれた岡公園があります。

その名の通り標高24メートルほどの小さな岩山の岡の周り1.8ヘクタールほどを敷地としており、藩政期には岡の上に弁財天が祀られていたものの明治に入ってからは放置され荒れ果てていた場所を、1880年(明治13年)に旧藩主らが記念碑建立の場として整備したということらしいので、「公園」と呼ばれる以前から実質的に公園的に使われていた期間も含めれば140年以上の歴史を持つ公園です。
和歌山城址が公園として開園したのが1901年(明治34年)のことなので、公園としてはこちらの方が先輩格ということになります。

もともとが記念碑建立のために開かれた場所だということもあり、決して広くはない園内には多数の碑や銅像、記念物が入り乱れ、本ブログでも久しぶりの石碑めぐり公園となりました。

まず岩山そのものから。園内には頂上まで登ることができる岩山(大)と、遊び場の一部のようになっている岩山(小)があります。
そもそも、この緑泥片岩の岩山は和歌山城が築かれる際に石材を切り出した石切場だったそうなので(実際どれほどの量を切り出したのかは知りませんが)、いわば産業遺跡の再緑化、持続可能な公園づくりの先駆けだと、適当なことを考えてみます。

まずは奥に見える岩山(大)から上ってみます。
この山に弁財天が祀られていたことから、弁財天山または天妃山と呼ばれているそうですが、今は弁天様は見当たりません。

実は今まで述べてきたことは、登り口の階段横に建つ「岡公園記」碑の横の解説板に書かれていました。

■現地の解説板より「碑 岡公園記-岡公園の沿革」
岡公園の沿革が記されている碑「岡公園記」は、明治29(1896)年に建てられました。当時の和歌山県知事沖守固が文章を作り、文字は明治の三筆といわれる日下部東作(鶴)の筆によるものです。この碑によると岡公園の名称は、神亀元(724)年に玉津島へ聖武天皇が行幸した際、この地と推定される「岡東」に離宮をつくったことに由来します。

公園内の岩山はかつて山上に弁財天が祀られていたことから、弁財天山、または天妃山と呼ばれています。和歌山城内が見下ろせるため江戸時代は登ることが禁じられていましたが、明治に入ると徐々に記念碑などが建てられ、明治28年に公園として広く一般に公開されました。

「岡公園ハ弁天山ノ旧址ナリ」と始まる碑文には、城内がよく見えるため藩政下では登ることが許されなかった弁天山が、明治以降は放置されて蛇蝎の巣窟となり荒れ果てていたものが、明治13年に旧藩主や県令らの発案で四役戦亡記念碑が建てられたことをきっかけに整備が進み、やがて公園として開放されたことが記されています。

ちなみに反対側の階段横には、和歌山出身の農芸化学者・高橋克己の記念碑があります。

■現地の解説板より「農学博士高橋克己頌德碑」
高橋克己(1892-1925)は、世界ではじめてタラの肝油からビタミンAを分離抽出したことで知られる科学者です。この碑は、高橋克己博士顕彰会によって、昭和44(1969)年に建てられました。
明治25(1892)年、海部郡木本村(現和歌山市木ノ本)に生まれた高橋は、県立和歌山中学校、官立第三高等学校を経て、大正3(1914)年に東京帝国大学農科大学農芸化学科に入学しました。大正6年、大学院に進み鈴木梅太郎の研究室で油脂の研究に取り組み、卒業後も理化学研究所研究生として研究を続けます。大正11年、ついに世界に先駆けて油脂からのビタミンAの抽出に成功し、翌年イギリスから特許を受けました。その後も研究所研究員として研究を続けましたが、大正14年に病により32歳の若さで亡くなりました。

階段を登っていくと、初代和歌山市長である長屋喜弥太(ながや・きやた)の大きな碑と、文字がかすれてしまって読み取れない小さな碑が並んで建てられていました。

大きな長屋喜弥太の方は、横に解説板も建てられていて内容がよくわかります。

■現地の解説板より「初代和歌山市長 長屋喜弥太の碑」
この碑は、明治32(1899)年に建てられた初代和歌山市長 長屋喜弥太(1838-1897)の顕彰碑です。和歌山出身の軍人・官僚であった川口武定が文章を書き、篆額(上部の題字)は紀州藩最後の藩主となった徳川茂承、文字は和歌山の漢学者倉田績によるものです。
長屋喜弥太は紀州藩士長屋智彬の長男として生まれました。幕末期、天誅組の変や幕長戦争に従軍し、明治3年には和歌山藩の歩兵連隊長に任じられるなど、軍人として歩みを進めました。明治10年の西南戦争時には、陸軍少佐として和歌山県の壮兵募集を担当し、遊撃第五大隊参謀に任じられて従軍しました。明治16年、和歌山区長に就任し、明治22年、市制施行に伴い初代和歌山市長を務めました。

小さな碑は、かなり傷んでおりほとんど読み取れません。鳥居某という人物の記念碑であるようなのですが...
後日、資料をあたってみると、和歌山出身の陸奥宗光と関わりのあった人物に鳥居藤四郎、鳥居源三郎という名が挙がってくるので、どちらかの記念碑なのかも知れません。

そこからもう少し進むと、また解説板のない石碑がありました。こちらは鳥居某のものとは違ってしっかり碑文が読めて、遠藤泰道という人物の記念碑であることがわかりました。

これも後日調べてみると、国会図書館のデジタルコレクション『和歌山県人材録』(和歌山日日新聞社,大正9年刊)に遠藤についての記載がありました。
幕末に和歌山藩士として銃法を身につけて戊辰戦争に従軍、明治以降は陸軍大尉となり、また陸軍二等副監督、従六位に叙せられ、1877年(明治10年)に41歳で亡くなったこと、子はなく甥の慎司(1853-1932;陸軍主計監などを経て1915年から1923年まで和歌山市長)を嗣子としたことなどが記されています。

また、兵庫県尼崎市の教育委員会が尼崎城について記した資料によれば、彼は1873年(明治6年)のいわゆる廃城令に先立って、陸軍用地として残す城と廃城処分して大蔵省の所管に切り替える城とを選別するために陸軍省が派遣した調査に加わっており、近畿地方55ヵ所の城郭を調査した記録が『城郭巡視日記』として残っているそうです。

そこでは尼崎城を「外郭、櫓などが老朽化しており、本丸も手狭である」、「城下町も豪商がおらず、家屋も粗末である」などと報告しており、結果として尼崎城は廃城と判断されました。
この時に和歌山城も廃城になっていますので、彼がかつての自分の勤務先だった和歌山城についてどのように報告したものか気になります。

さらに進むと、北の和歌山城がよく見える小園地に出ました。
パーゴラなどがあり、お城を眺めるための場所として設定されているようです。

なんだか立派な手水鉢があります。

お月見の日に、うまいこと酒坏に月が浮かべば絶景なのですが。

そしてさらに坂を登って頂上面に至ります。頂上面には2つの突き出し部があり、うちひとつに、公園化の発端となった四役戦亡記念碑があります。

■現地の解説板より「四役戦亡記念碑-戦死者の慰霊・顕彰碑」
この碑は、四役(明治7(1874)年から明治10年の間に起こった佐賀の乱、台湾出兵、神風連の乱、西南戦争のことで、戦死した和歌山県出身兵士491名の慰霊顕彰のため、明治12年に建てられました。碑の文字は、西南戦争で征討総督を務めた有栖川宮熾仁親王によるものです。旧藩主徳川茂承と旧和歌山藩出身陸軍将校の発起によるもので、明治12年9月24日に記念祭典が行われました。
山上では、明治11年から戦をとむらう招魂祭が行われており、後に和歌山城内に会場が移るまで、毎年祭典が行われていました。左隣の「四役戦亡記念碑側記」は、和歌山県令の神山郡廉によって明治16年に建てられました。

周りのマツが大きくなって少し隠れがちですが、近くまで行って見ることができます。
「記念碑」とはっきり刻んだ記念碑は、意外に珍しいように思います。

そのさらに奥に、日清戦争の勝利を記念して1895年(明治28年)に建てられた征清記念標がそびえています。

■現地の解説板より「征清記念標-日清戦争のモニュメント」
征清記念標は、日清戦争(1894-1895)での日本の勝利を記念して、明治28(1895)年に建立されたモニュメントです。槍のような三角の部分は銅製で、大阪砲兵工廠でつくられました。題字は、日清戦争で征清大総督に任じられた小松宮彰仁親王によるものです。
石井忠亮(5代和歌山県知事)や加藤果(当時市助役、2代和歌山市長)など、当時の有力者86名が発起人となって明治28年9月に発行し、広く寄付金をつのりました。そばに建つ「征清記念碑」は、建立の経緯などを記したもので、文章と文字は、当時の和歌山県知事(7代)沖守固によるものです。

四役戦亡記念碑が、山まで登ってきて正対することを考えてのものであるのに対して、こちらは遠くからでも眺められることを意識した配置・デザインになっています。お弔いのための記念碑と、景気づけのためのモニュメントの性格の違いと見て取りました。

現代に生きるブログ作者の個人的な感覚としては、もっぱら内戦で命を落とした地元出身者の慰霊碑の隣に、それよりも大きく目立つ形で他国を制圧した証の記念碑を建てるというのもひどい話だと思います。10数年の間にイケイケな空気が醸成されたのか、日清戦争の勝利というのがそれくらい大きくインパクトのある出来事だったのか。
こちらの石碑の建設が同年の公園開設の理由にもなるので、そこは認めないといけないのですが、どうにも釈然としないものがあります。

記念標の足元に建てられている碑文が読めれば、もう少し当時の空気が伝わってくるかと思うのですが、足元の悪い岩場にあって上手に近づくことができないため、そのへんは謎のままです。

ここで岩山(大)を降りて南へと回り込むと、山麓に広沢池という池があります。
池には征清記念標がある山上から滝が落ちてきており、どう考えても人工の滝なわけですが、いつ頃整備されたものなのかはわかりません。明治時代の開園当初からあったのでしょうか。

いずれにしても、滝の周りの樹が繁り過ぎで、せっかくの滝の景色が楽しみづらくなっています。
作った時は樹を伐る時のことまでは考えていないと思うので、今となっては、この池に落ち込む崖地の手入れをどうするものかは考えものです。上からワイヤーで吊るしながら作業をするか、池の水を抜いてから足場を組むか...

この岩山(大)には水との関係が深い弁天様が祀られていたということなので、この池にもなにか意味が込められているように思うのですが、そこは勝手な想像です。弁天社は、今は池とは離れた岩山(大)の東側に祀られていますので、もともと池とは積極的に結びついていなかったのかも知れません。

逆に、現在は池の傍らに紀州徳川神社が祀られているのですが、明らかに新しい建物で由来などよくわかりません。

社殿の奥に山の窟を利用した拝所のようなものがありますが、そこには観音様やお大師様、少年兵などが乱立しています。配されている石像はどれもCNC加工のものなので、だいたい平成になってから作られたものだと思われます。
都市公園内の状況としてはカオスが過ぎるので、ここだけ民有地なのかも知れません。

紀州徳川神社を過ぎて、山の西側を北上すると、また解説板のない石碑に出会いました。でも碑文に「大正4年11月、御大典記念、奉頌碑」とはっきりと刻まれているので、だいたいのことはわかります。
碑文は先に登場した長屋喜弥太の碑と同じく、和歌山の漢学者・倉田績の書であるようです。裏面には地元の料理業組合の名前が刻まれています。

1915年(大正4年)11月に京都御所で行なわれた大正天皇の即位の礼と大嘗祭(即位大礼)、それに伴う奉祝行事(御大典)の関連アイテムは、京都市内に大量にあるのは当然ですが、全国各地でも多数見られます。
この時、和歌山では御大典記念事業として和歌山城跡(和歌山公園)の再整備に着手し動物園が設置されていますので、岡公園にもなんらかの整備が入ったかも知れません。

石碑というには巨大すぎるのですが、仁井田好古の磨崖碑もあります。
仁井田好古は幕末の儒者。父が百姓から藩士として取り立てられた家に生まれ、幼い頃から学問に優れ、1806年(文化3年)には藩より『紀伊続風土記』の編纂を命ぜられ、30年あまりも紀州各地を巡って192巻を完成させた人物です。
その好古の二行書「山寿仁人徳 水清廉士風」を岩に直接に刻んだ磨崖碑です。

...と解説板が立っていたのですが、離れたところから見ていてもさっぱりわかりません。どの岩だ?

近寄って探してみると、やっと「清」と「寿」が見つかりました。
それより下の「仁」はまだ大丈夫ですが、「廉」ほかには落ち葉が被さって見えにくくなっているのでした。

ここの解説板には仁井田好古の経歴は長々と書かれているのですが、肝心の磨崖碑が、いつ頃、なぜ彫られたのかはまったく触れられていません。
詳しいことがわかっていないのかも知れませんが、せめて江戸時代からあるのか、明治以降に公園になってから彫られたのかくらいは知りたいと思うのです。

少し場所は離れるのですが、陸奥宗光の銅像も行っときましょう。1971年(昭和46年)の明治100年記念事業で設置されたものです。

■碑文より「陸奥宗光先生の銅像建立によせて」
このたび明治百年記念事業として久しく待望の郷土が生んだ偉材陸奥宗光先生の銅像を建立永くその高徳を仰ぐことになりました。
諸事堪忍すべし堪忍の出来丈は必す堪忍すべし堪忍の出ざる事に会すれば決して堪忍すべからず。これは先生が今息に手紙の中で諭された創言の一節ですなかんずく先生の偉大な人生を一貫する忍耐と勇気は今こそ私達の守るべき指標であります。
この銅像建立に尽力された川口正明氏ら発起人会ならびに多数のある方々に深甚の敬意を捧げます。
昭和46年8月24日 和歌山市長宇治田省三

さらに、園内の石碑としてはおそらく一番新しい「李真栄・梅渓顕彰碑」は、1998年(平成10年)に公園北端の道路沿いに設置されています。
江戸時代初期に、藩の学者として活躍した親子の記念碑だそうです。

■碑文より
李真栄:儒学者として徳川頼宣公の侍講となり、藩政並びに韓国との交易・文化交流に貢献する。
李梅渓:父より儒学を学び徳川光貞公の侍講となる。又著述も多い。中でも万治3年藩主頼宣公の創案で梅渓の手になる「父母状」は紀州藩政の規範であり教育の指針として親孝行の道を教え、藩の風教維持につとめた。紀州藩政の初期に、父同様日韓友好の礎を築いた。
平成10年7月 李真栄・梅渓顕正会

碑文にも刻まれた「父母状」というのが顕彰のポイントなのですが、この碑だけではどういうものなのかよくわかりません。
しかし、そこは良くしたもので、父母状については公園南端部の道向いに別の記念碑があります。

■現地の解説板より「父母状の碑」
万治3年(1660)熊野の山奥で父親殺しの事件が発生。捕らえた若い男が親殺しの大罪にも悔いないさまを聞き、藩主徳川頼宣(吉宗の祖父)は「藩の教育に問題があった。彼一人の罪ではない。私の不徳を恥じるのみだ...」
大変心をいためた頼宣は藩民のために「訓論」の筆をとった。「父母に孝行に法度を守り奢らずして面々家職を勤、正直を本とする...」漢文学者李梅渓に浄言させたのがこの父母状である。
その後頼宣紀州入国記念祭を機にこの碑が建立された。

この解説文で父母状についてはわかったのですが、また謎のキーワード「頼宣紀州入国記念祭」が出てきました。
おそらく、1619年に徳川頼宣が紀州に配され御三家として和歌山藩が成立してからの節目の年、そうすると400周年の2019年の石碑には見えませんので、300周年の1919年になんらかの記念行事が岡公園周辺で開催されたのだろうと想像するのですが、あくまで想像です。

明治はじめの戦没者記念碑の建立に始まり、日清戦争記念、大正天皇即位の御大典、藩祖頼宣の入国記念、明治100年記念など、さまざまな機会を見つけては色々と整備されてきた岡公園。
この変遷をしっかりと追うだけでも論文が一本書けるくらいのボリュームがあって大変なので、その2に続きます。

(2021年12月訪問)

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