名護市西部の屋部(やぶ)地域は、戦前には旧・名護町の一部でしたが、戦後にいちど独立して屋部村となり、1970年に再び名護町や周辺の羽地村などと合併して現在の名護市が誕生しました。
現在は国道449号沿いの臨海部や内陸でも区画整理事業が実施された区域で都市化が進み、名護市中心部から連担した市街地となっています。
その屋部村の字屋部、本来の村の中心が屋部川の河口西側のあたりで、いまも旧・屋部村の役場だった屋部支所があり(ただし2021年現在は建替中)、その横に屋部渡波屋(とわや)公園と屋部親水公園が並んで設置されています。
下写真が屋部川の河口。ですが公園はもう少しだけ上流なので写っていません。
立地と整備内容からして、もともと地域の中心的な公園として渡波屋公園があり、後にそれと一体的に拡張するような形で親水公園が整備されたものと思われます。
では「渡波屋」とはなんだろうかと調べてみると、上野英信『眉屋私記』に次のように書かれていました。
渡波屋は双頭の岩座である。根もとは一つだが、上の方は風浪に削られて、南北にそれぞれ独立している。(中略)
いつごろから渡波屋と呼ばれるようになったのか、あきらかではない。しかし、その頂きに登ってあたりを展望すると、みごとにその体をあらわした名であることがうなずかれる。
ということは、この岩山が渡波屋だということです。今は屋部集落から陸続きですが、かつては浅瀬に浮かぶ島だったのでしょう。
現在の公園は、この岩山にむかって右に進めば渡波屋公園(公式愛称は徳元公園)、左に進めば親水公園(公式愛称は屋部川にじ公園)です。
大きな岩の足元に小さな祠。岩に絡まる榕樹の根が、祠も覆い尽くさんばかりの勢いです。
そして、この横には岩山へと登る階段があり、その横に石碑があります。
『渡波屋建堂記念碑』と題された石碑には、「つながれる御縁 何時までん 結で変るなよ村人 年や経てん」という琉歌に続いて「当区出身比嘉徳元翁 年少にして布哇に渡り、彼地に在ること50有余年...」と碑文の本文が始まり、徳元翁が「心の逢瀬を景色佳なる渡波屋に求め...巨費を寄進して不忘の塔建設に充てんことを乞う...村人感銘措く能わず...1960年2月」と刻まれています。
つまり、この地区出身の比嘉徳元さんがハワイに渡り住み、苦労の末に歳を重ねた後に、故郷の渡波屋に思いを馳せ寄付をして塔を建てて欲しいと村人に願ったということのようです。
また、徳元さんは区のため社会のために幼児教育を充実することを訴え、寄付の一部を使って保育所も作られたそうです。
ここで渡波屋に登るのは後回しにして、渡波屋公園の園内へと進みます。
屋根付きの休憩所の向こうに芝生広場、さらにその先に遊具が見えています。
芝生広場は、ざっくり20メートル四方くらいの大きさで、ゲートボールならちょうど1面分です。
そして芝生広場から外れた隅っこに、滑り台が1基だけ。
これだけだと寂しいようにも見えてしまいますが、左手のフェンスに開いた出入口を抜ければ、横に親水公園が続いているので大丈夫です。
親水公園は渡波屋公園の数倍の広さがあり、施設も色々あるのですが、まずは先ほど保留した渡波屋に登ります。
近づくと、こうなっています。確かに眉屋私記にあるように「根もとは一つだが、上の方は風浪に削られて、南北にそれぞれ独立して」いますね。
建堂記念碑の横にあった階段とは真反対になりますが、親水公園側からも階段が通じており、左手に堂、右手に石塔が見えて、ここだけ切り取ると中国の史跡にでも来たような画になります。
堂に近づいてみると、こうなっています。岩山の一番高いところに、六角屋根の赤瓦が映えています。
眉屋私記には「渡波屋の頂きは、船送りの庭である。村びとはその巌頭で琉球松の青葉を焚き、つきぬ名残の白煙を立ちのぼらせるのをならわしとした」とありますので、そうした場所を整備して堂を建てたのでしょう。
堂に登る階段の途中にも石碑があり、こちらは琉歌がいくつか刻まれているように思うのですが、達筆なので上手に読み取れませんでした。
ひとつ目の歌は「吾が村の風水かれよしの渡波屋 内外も揃て千代の栄」であってるかな?
頂上まで登り、堂から公園越しに海の方角を。
比嘉徳元翁が故郷を去ってから110年。翁が懐かしんだ故郷の景色は沖縄戦での災禍や後の開発を経て大きく変わっているのでしょうが、今は今で人の暮らしのサイズにあった良い景色だと思います。
渡波屋の上には、もう一つ石塔があります。こちらは、この地区の戦没者慰霊塔のようです。
建堂記念碑に「不忘の”塔”」と刻まれていたことが気になりますが、慰霊塔が不忘の塔ということではないと思います。
再び地上に降りて、親水公園の園内です。
岩山の麓にあるステージは、虹模様で彩られています。
その横手に、まだ新しい複合遊具。右側の黄色っぽい大型のものと、左側の赤いスパイラル滑り台がついた小型のものがあり、幼児から小学生までがみんなで一緒に遊ぶことができます。
その横手には、大人向けの健康器具も複合しています。
でもこれで大人がみんな一緒に運動するのはちょっと気恥ずかしいので、けっきょく一人ずつ使うことになるでしょう。
あとは、もう少し大きな中高生たちでも遊べるバスケットコートも整備されており、子供たちの遊び場としてはなかなか充実しています。
しかし公園名になっている親水空間は、正直なところイマイチです。
階段で河口の干潟に降りていけるようになっているのですが、それだけといえばそれだけ。とくに使いやすくしたり、安全に使えるようにしたりする工夫はなさそうでした。
スロープもあるのですが、波打ち際の高さのところにゴミが溜まってしまっていました。
この親水護岸の横手あたりに、冒頭から引用してきた眉屋私記の作者・上野英信の文学碑があり、「眉の清らさぞ 神の島」と大きく刻まれています。
■碑文より-上野英信「眉屋私記」文学碑「眉屋私記」は九州・筑豊の炭鉱労働の記録文学者・上野英信(1923~1987)が沖縄を正面から取り上げた作品である。屋部の屋号「眉屋」の山入端一族の移民と辻売りという近代沖縄の底辺を貫く2つのテーマで沖縄の民衆のたくましい姿を映し出した。メキシコに炭鉱移民で渡り、同地で革命にあい、難を逃れたキューバでも革命に巻き込まれ、二度と故郷の土を踏むことのなかった長男・萬栄(1888~1959)と三線を手に放浪の旅を続けたその妹・ツル(1905~2006)の人生を柱に物語は世界を駆け巡る。ここルーツである屋部・渡波屋の地に沖縄民衆の生きざまを刻む記念碑として県内外有志の浄財により建立する。2021年3月 眉屋私記文学碑建立期成会
小さいながらも盛りだくさん。来てみないと知らないことばかり教えてもらった屋部渡波屋公園と屋部親水公園でした。
(2021年7月訪問)
0 件のコメント:
コメントを投稿