金武町出身の當山久三(とうやま・きゅうぞう;1868-1910)は明治時代の社会運動家で、沖縄県の海外移民事業の旗振り役として知られる人物です。
1899年(明治32年)のハワイ移民を手始めに、フィリピン、北米、中南米などへ移民を送り出した後、1909年(明治42)には政治家に転身、沖縄県の第1回県議選挙でトップ当選を果たしますが、翌年に病に倒れて亡くなります。
1935年(昭和10年)、そんな當山を記念する銅像建立のために寄付金が集められ、銅像とともに周りの小園地、鉄筋コンクリート製の當山紀念館が建設されました。
銅像は戦時中の金属供出のために失われたのですが、1961年に再建されます。
ちなみに銅像再建期成会の建設責任者は、No.2731 オランダ森緑地公園の回に登場した松岡政保。當山よりも一世代後、戦後に活躍した金武町の偉人です。普久原朝充ほか『沖縄 オトナの社会見学R18』(亜紀書房)によれば、松岡の妻は當山の姪にあたるとか。
寄贈は合資会社松岡配電となっていますが、これは松岡が設立した配電会社で、1976年(昭和51年)に県内の他の配電会社とともに沖縄電力に吸収合併され、これによって沖縄県内での発電・配電事業の一本化が成されます。
何を象ったものなのか、ちょっと変わった形の歌碑?も松岡の書となっています。
これは第1回のハワイ移民の壮行に際して當山が送った「いざ行かむ吾等の家は五大洲 誠一つの金武世界石」という言葉の下の句のようです。
上の句は銅像の台座に刻まれているので、それと呼応する形になっています。
アメリカ、ハワイ、ブラジル、アルゼンチンなど沖縄移民が旅立った先が標識で示されています。この標識はまだ新しいので、最近になって建てられたものかも知れません。
改めて銅像ですが、ここでもNo.2731 にあった松岡の銅像と同じく、見上げるような高さのところに飾られています。
手元にあるのは地球儀でしょうか。遠く海の彼方を指差して、「いざ行かむ」と呼びかけているようです。
銅像の外周部には柵があり、そこには ”T” のような文様が刻まれていました。當山の ”T” なのか、はたまた何かのプレートが剥がれた跡なのか。
そして銅像の後ろに建つのが當山紀念館。銅像と同じ1935年に建てられた鉄筋コンクリート造平屋建の建物です。
長らく町役場の倉庫のような形で使われていたのですが、2016年(平成28年)に建設当時の姿に復元されて、當山や海外移民関係の資料を集めた施設としてリニューアルオープンしました。2021年(令和3年)には、国の登録有形文化財(建造物)になっています。
そこから少し東へ下がった茂みの奥に、忠魂碑を見つけました。資料によれば、旧・金武村の忠魂碑として1936年(昭和11年)に建てられたものだそうです。
きれいに整備された當山の碑に比べると、訪れる人もなく、周囲の柵や階段も壊れたままになっていました。
忠魂碑は戦前の政治・思想色が強く出て、純粋な戦没者慰霊碑とは異なるものだと捉えられますので、とくに沖縄においてあまり顧みられないことは理解できます。金武町では、別に「芳魂の塔」という慰霊碑を建てて日露戦争以来の戦没者を祀っていますのでなおさらです。
とは言え、1年違いで建てられた2つの記念碑の80数年後の運命に、色々ともの思う當山久三銅像前の小園地でした。
とやまきゅうぞうってすげー
返信削除そうなのです、すげーひとなのです
削除この場所に行かなければそんなすげーひとを知ることもなかったかも知れないので、そのよろこびを記事にしてみました