No.2234 中央公園から50メートルほど離れたところに、沿道との高低差5メートルほどの小さな丘があります。
ここは「御蔵山(おぐらやま)」と呼ばれ、江戸時代には当地を治めた代官所の出先があり、明治以降には山田町役場が置かれるなど、山田の政治の中心だった場所だそうなのですが、現在は東日本大震災の慰霊碑などが集められた小公園になっています。
■現地の解説板より「御蔵山(おぐらやま)」
所在地 山田町八幡町地内御蔵山は年貢米を貯蔵する蔵のあった所である。慶安元年(1648)正月「宮古、山田御蔵の御勘定書を大槌代官船越新左衛門、小本助二郎、七戸勘之丞の三名の連名で藩に書き上げる」の記録があることから、この頃にはすでに御蔵があったと思われる。
代官所の組織の中に御蔵奉行があり、大槌御蔵と山田御蔵があった。奉行は藩士か所の給人、代官が兼務した。承応3年(1654)の大槌・山田の御蔵奉行は圓子九右衛門で両御蔵合わせて保有米は497石7斗2升9合8勺である。延享2年(1745)12月には山田御蔵を立て替えた。御蔵は三間に6間、ひさしは一間に3間、庭は二間に3間の広さであった。
宝暦8年(1758)大槌御蔵が大破したため、山田御蔵を解体し、その材木で大槌御蔵を修理した。これに伴い山田御蔵は無くなった。文政6年(1823)には願銭100貫文を5ヶ村(大沢、上・下山田、織笠、船越)で献金し、御蔵山を5ヶ村共有とした。文政12年(1829)10月、十分一役所(税金の取立て所)が建てられ、役人は昆仁兵衛、松本五郎兵衛、黒澤六之丞、川端儀兵衛が務めた。
その後、明治3年8月には山田港運上所が設置されたほか、明治22年には飯岡村、山田村が合併して山田町となり、御蔵山に町役場が設置された。昭和31年に役場は現在の場所に移転したが、それまでこの場所は山田の政治の中心であった。
平成11年3月30日 山田町教育委員会
海岸沿いに巨大な防潮堤が築かれたため、「眼前に海を一望」という状況ではなくなっていますが、山田湾沿いの港までは200メートル足らず。震災の際には、多くの人がこの小丘に避難したことと思われます。
見えているのは、山田湾に浮かぶオランダ島。
山田町では、水門を閉めに向かったり、住民に避難を呼びかけて回ったりしていた消防団員が津波に飲まれてなくなっており、町民皆さん全体の慰霊碑と、殉職消防団員の慰霊碑とが並んで建てられています。
こちらは町民の方々の慰霊碑。「犠牲者への祈り、復興への誓い」と刻まれています。
消防団のものともども、2019年(令和元年)3月に建立されたものだそうです。
こちらは消防殉職団員慰霊之碑。消防庁の資料によれば、山田町の消防団では9人の死者・行方不明者があったとのことです。
ほかにも災害を語り継ぐモニュメントとして、JR陸中山田駅(震災後は三陸鉄道に移された)にあった大時計も残されています。
■現地の解説板より「この大時計について」
2011年3月11日午後2時46分、マグニチュード9.0の歴史的大地震が東日本太平洋沿岸一帯を襲った。それに引き続いて発生した大津波は山田町に襲いかかり、被災したJR陸中山田駅の駅舎上に設置されていた大時計は津波による被災時刻の3時27分を指したまま止まっている。
山田ロータリークラブの創立記念行事として、昭和46年に当時の国鉄陸中山田駅舎上に設置されていたものである。この大震災の規模と大きさと威力を如実に示すものであり、ここに展示し後世の防災の教訓とする。
2012年3月11日
国際ロータリー第2520地区 山田ロータリークラブ
そして、ロータリークラブにより建設された「鎮魂と希望の鐘」。
津波のことを思えば、海の方を眺めることも嫌になりそうです。ここへ来て、帰らぬ人のことを思いながら鐘を鳴らせるまでには、相応の時間が必要でしょう。
また、園内の東屋も、ベンチは海の方を向いて座るようにできています。
歴史的に見れば津波を恐れつつも付き合いながら生きてきた、三陸の皆さんの感覚が反映されているように思います。
「それでも私は海が好き」御蔵山の公園でした。
(2019年7月訪問)
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