2042/1000 寺内公園(東京都新宿区)

2019/03/02

狭小公園 新宿区 東京都

t f B! P L
寺内(じない)公園は、東京の花街として有名な神楽坂エリアの一角にある狭小な公園です。下の写真で全体が入っており、資料によれば面積は約240平米。
比較的近年(2003年)に、地域の人たちの意見を受けて作られた公園ということで、公園の由来についての詳しい案内板が設置されていました。
●現地の案内板より「寺内公園の由来」
 この「寺内公園」」の一帯は、鎌倉時代の末から「行元寺」という寺が置かれていました。御本尊の「千手観音像」は、太田道灌、牛込氏はじめ多くの人々が信仰したと伝えられています。寺の門前には古くからの町屋「兵庫町」があり、3代将軍家光が鷹狩りに来られるたびに、兵庫町の肴屋が肴を献上したことから「肴町」と呼ばれるようになりました。

 江戸中期の天明8年(1788)、境内の東側が武家の住まいとして貸し出されるようになりました。この中に、貸地通行道(後の区道)という、人がやっとすれ違える細い路地がありました。安政4年(1857)頃、この一部が遊行の地となり神楽坂の花柳界が発祥したと伝えられています。明治4年(1871)には、行元寺と肴町を合わせて町名「牛込肴町」となりました。(昭和26年からは「神楽坂5丁目」になっています。)

 行元寺は、明治40年(1907)の区画整理の際、品川区西五反田に移転し、大正元年(1912)に大久保通りができました。地元では、行元寺の跡地を「寺内」と呼び、味わい深い路地のある粋な花柳街として、毘沙門さまの縁日とともに多くの人々に親しまれ、山の手随一の繁華街として賑わっていました。

 文豪、夏目漱石の「硝子戸の中」大正4年作(1915)には、従兄の住む寺内でよく遊んでいた若き漱石の神楽坂での思い出話がでてきます。また、喜劇王柳家金語楼と歌手・山下敬二郎の親子や、女優・花柳小菊、俳優・勝新太郎、芸者歌手・神楽坂はん子などが寺内に住んでいました。このように多くの芸能人や文士に愛された「寺内」でもありました。

 日本経済のバブル崩壊後、この一帯は地上げをうけましたが、その後の高層マンション建設に伴って、区道が付け替えられ、この公園ができることになりました。公園内には、地域の人たちのまちへの思いやアイデアが多く盛り込まれています。

 いつまでも忘れることのない歴史と由緒あるこの地の思い出をこの「寺内公園」に託し、末永く皆様の思い出、憩いの場として大切に護り育てましょう。

平成15年3月吉日 新宿区

案内板を通り越して、園内へ一歩足を踏み入れたところ。
公園として緑がある部分と、歩道代わりに舗装された園路になっている部分の割合は半々といったところでしょうか。

こちらが公園の横の道、すなわちマンション建設に伴って付け替えられた区道なのだろうと思うのですが、どこまでが道路敷地で、どこまでが建物や水路敷地なのか悩ましいような細道なので、公園内を通り抜ける人も多いだろうと思います。

再び戻って園内。
とくにどこに通り抜けているわけでもないのですが、花街の石畳道をイメージさせるような敷石があります。

ササとスイセンは、あまり管理の手間をかけずに和庭風になる良い組み合わせだと思います。

小さすぎる中でも、記憶に残る寺内公園でした。

新宿区による公園紹介ページ

(2018年12月訪問)

ブログ内検索 Search

アーカイブ Archive

地図 Map

問い合わせ Contact

名前

メール *

メッセージ *

Facebook Page

QooQ