1859/1000 弥治右衛門児童公園(大阪府守口市)

2018/07/29

守口市 身近な公園 石碑めぐり 大阪府

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弥治右衛門(やじえもん)児童公園は、守口市の北東部で、昭和中期までは農村だったエリアにある小さな公園です。行政上の区分で「児童公園」となっていますが、あまり児童が遊ぶような雰囲気の場所ではありません。

と言うのも、名前の元になっている小泉弥治右衛門は、江戸初期、慶安(1648-1652)の頃の当地の庄屋で、灌漑に悩む村人たちの苦しみを案じて幕府に無断で樋門をつくり、罪に問われて処刑されたという人物です。
その墓、顕彰碑などが集まった敷地を、児童公園として位置づけているのですから、遊び場でないということはわかって頂けると思います。

■現地の解説板より「弥治右衛門記念碑」
旧大窪地区一帯は低地で、特に藤田村は、水はけが悪く、少しの雨でも池のように水がたまり、農作物に大きな被害を毎年のようにもたらしていました。
慶安元年(1648)7月藤田村の小泉弥治右衛門は、村民の苦しみを取り除こうと、幕府の許可なしに古川筋に排水樋を設け水はけを良くしました。
しかし、上下流地域から苦情が起こり、又幕府の命令を無視したとして、翌年3月22日樋の存続と引き替えに弥治右衛門一家は処刑され、家財・田畑も没収されました。
村民たちは、村のため犠牲になった弥治右衛門を後世に伝えるべく、俗名を刻んだ道標をつくり、墓碑がわりとし、また昭和7年には、この記念碑をも建立しました。(
平成2年3月 守口市教育委員会)

現地には上のように書かれた解説板があるのですが、今ひとつ痒いところには手が届かず、知りたいことがわかりません。

まず、昭和7年に建てられたという「この記念碑」は、解説板のすぐ後ろに建つ「義民弥治右衛門碑」ということで、間違いないと思われます。園内の石碑の中でも、ひときわ立派なものです。

そして江戸時代に建てられた「俗名を刻んだ道標」は、道に面したところに建つもので間違いないでしょう。

でも、園内にある「小泉弥治右衛門の墓」には触れていないので、もう一声教えて欲しかったところです。
たまたまここで出会った近所のご老人によれば「冒頭の石碑を建てた時に、一緒に墓もつくった」ということだったのですが、詳しいことはよく知りません。他の石碑などとは違って小門が付けられていることから、ワンランク上の管理がされていることがうかがえるのですが...

さらに、園内にはほかにも幾つか謎の石碑があります。
まず、一番奥にあるこの石碑。冒頭の石碑にも負けず劣らず大きなものですが、刻まれた文字がほぼ読み取れません。
表面には縦横に傷のようなものが見えるので、自然に風化したのではなく、あえて文字を削り取ったようにも見えます。

裏に回ると「大蔵閘碑」という部分だけは読み取れるので、水利関係の施設の記念碑だということはわかりますが、その下の碑文はまったく読み取れません。上で「あえて文字を削り取ったように」と書きましたが、それならそれで表題の「大蔵閘碑」を真っ先に削るでしょうから、やっぱり自然風化なのでしょうね。

これも風化しているのか、もともと空欄が多かったのかがわかりませんが、お名前と金額が刻まれているので、昭和7年の記念碑建立の際に出資した方々の芳名碑ではないかと思われます。

こちらは時代が下がるので、よくわかる記念碑。
戦後にこの付近で行なわれた土地区画整理事業の記念碑ですが、碑文の冒頭に、当地の農地改良の先人である小泉弥治右衛門の名を挙げて讃えています。

で、公園の敷地を通り抜けた先は、このような遊歩道になっており、そこにも「弥治右衛門樋跡」という石碑が建てられています。この遊歩道がかつての水路であり、この場所に排水樋を設けたということなのでしょう。

古い地図で状況を確認してみると、青い筋が現在は暗渠化されている水路(現在の遊歩道)で、オレンジ色が明治時代ごろの旧道でいまは飛び飛びにしか残っていない道、赤いところが現在の公園です。
それらを直線で貫く新道(現在も公園の前を通っている道路)が開通したのが昭和初期のようなので、これにあわせて公園敷地の整備、記念碑の建立などが進められたのだろうと思われます。

国土地理院「地図・空中写真閲覧サービス」より
整理番号:USA/コース番号:M31-1/写真番号:20
撮影年月日:1948/03/27(昭23)

また、道の位置が変わっていますので、道標も場所を移して保存されたのだろうと思います。

でも一番気になるのは、解説文にあった ”上下流地域から苦情が起こり、又幕府の命令を無視したとして、翌年3月22日樋の存続と引き替えに弥治右衛門一家は処刑され、家財・田畑も没収されました。” という事の後の顛末です。
この付近の農地の排水を良くするために樋を設けたら他所から苦情が起きたのは、上下流の村々の利水や排水に悪影響が出たからだろうと思うのですが、弥治右衛門一家の処刑と引き替えに樋は存続したのであれば、ほかの村はその悪影響をずっと受け続けたのではないでしょうか?
立場によって人の評価は変わるので、ほかの村の意見も聞いてみなければなりません。

訪れるまでまったく知らなかった人物を知ることができた弥治右衛門児童公園でした。

(2018年5月訪問)

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