1772/1000 緑南作緑地(千葉県我孫子市)

2018/04/22

我孫子市 身近な公園 石碑めぐり 千葉県

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緑南作(みどりみなみさく)緑地は、手賀沼を南に望む丘を使った緑地です。
おそらく「緑」が現在の町名で、「南作」が旧字ではないかと思います。

周りが平坦な住宅地として開発されている中で、尾根の突先がポコリと残されたような格好に見えます。ずっと昔は、手賀沼に突き出した岬のような地形だったのかも知れません。
丘の斜面に近づいてみると、けっこう急な勾配です。

その東側の山裾には、小さな木製遊具、パーゴラ、ベンチなどが置かれていました。
しかし、すぐそばに急な斜面が迫っているので一日の半分くらいは日が当たらないのではないかと思われ、地面がかなり湿っていました。

おそらく崖から湧いてくる水分も溜まりやすくなっていると思われ、遊び場としてはイマふたつくらいな環境です。

湿っぽい崖下を離れて、崖上に登っていくと、思いがけず広い平場が広がっていました。

そこに建てられていた石碑によれば、この平場は、明治から昭和初期にかけて活躍した新聞人・杉村楚人冠(すぎむら そじんかん)の住宅跡だそうです。

■現地の解説板より「杉村楚人冠」
新聞人で随筆家。本名広太郎。和歌山県生。英吉利法律学校(中央大学の前身)などで学び、明治36年(1903)、朝日新聞社に入社。敏腕健筆をうたわれ語学も堪能。しばしば海外に特派され、国際的にも知られる大記者となった。新聞社内に調査部を創設。アサヒグラフや縮刷版を創刊する。また石川啄木、長塚節などが世に出る際、功があった。著書に『楚人冠全集』18巻。明治末から手賀沼での田園生活に親しんだ。

解説板にあった挿絵の「東北雪中の取材」という、ソリに乗って人足に押してもらっているイラストは、何かの本で見たことがある気がします。

上に引用した解説板にもあるように、楚人冠は手賀沼の風景に魅せられて明治末から別荘を構え、関東大震災後は一家で移り住んできます。
手賀沼の風景をこよなく愛し、それを活かした観光事業などに進言をしたり、手賀沼の干拓事業に反対して景観保護を訴えたりしたそうです。

■現地の解説板より「楚人冠と我孫子」
楚人冠は、関東大震災後(1923)、東京から我孫子に居を移した。そしてアサヒグラフ連載の名随筆『湖畔吟』などで、手賀沼の風物を世に紹介した。また、湖畔吟社を結成して地元青少年の指導にあたった。昭和20年(1945)、この地で永眠。句碑”筑波見ゆ、冬晴れの 洪いなる空に”(陶製 川村蜻山作)は、楚人冠を敬愛した湖畔吟社同人が建立した。

干拓によって湖岸線は400メートルほど先になってしまいましたが、当時はすぐ下に手賀沼を望むことができたと思われます。

ちなみに、この平場のみが楚人冠の家だったわけではなく、100メートルほど離れた隣の区画に、建物も保存されて市立の杉村楚人冠記念館となっています。

湖の畔に佇む緑南作緑地、通称・楚人冠公園でした。

(2018年1月訪問)

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