1626/1000 亀沢第一児童遊園(東京都墨田区)

2017/11/06

身近な公園 東京都 墨田区

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亀沢第一児童遊園は、本所亀沢の街なかにある小さな遊び場です。
とはいえ、東南角地で3方向が道路に面しているため、とくに狭さは感じさせません。

下の写真でほぼ全体が写っており、おもな施設としてブランコ、滑り台、砂場、トイレ、きれいな花壇があります。
こうして書き連ねてみると面積のわりに物件が多いようにも見えますが、どれもコンパクトですっきりと収まっています。

こちらがコンパクトな遊具コーナー。
2連のブランコ、階段と滑り台が直交する滑り台など、コンパクトにまとまるタイプのものが採用されています。

砂場も、都会のアパートのタタミ2畳分くらいのコンパクトサイズです。

そして、この公園の南側には「真景累ヶ淵」「文七元結」などで有名な三遊亭圓朝が住んでいたそうで、それについての解説板も公園内に建てられています。
●現地の解説板より「三遊亭圓朝住居跡」
所在地 墨田区亀沢2丁目13番
三遊亭圓朝(1839~1900)は、江戸時代後期から明治時代にかけて活躍した落語家です。本名は出渕次郎吉。父は二代目三遊亭圓生の門人橘家圓太郎で、後に圓朝も圓生に弟子入りしました。
初舞台は弘化2年(1845)3月で、小圓太と名乗りますが、異父兄で僧侶の玄昌の勧めにより一時高座から離れました。池之端の紙屋葛西屋で奉公したり、玄昌の住まう谷中の長安寺に母と同居したのもこの頃で、新作怪談の創作に影響を与えたと考えられています。
その後、再び圓生門に戻り17歳で圓朝を称します。人情噺、怪談噺、落し噺などで江戸落語を集大成し、とりわけ人情噺では落語の話芸をより高度な次元に押し上げました。
圓朝は明治9年(1876)10月に浜町から本所南二葉町23番地(この公園の南側、現在の亀沢2丁目12番)に移り、同28年に牛込に転居するまでの19年間をこの地で過ごしました。この間、本所に住んだ薪炭商塩原太助をモデルにした名作『塩原多助一代記』を生み、明治22年4月には三遊派の隆盛を記念して木母寺境内に三遊塚を建立しました。
代表作に「真景累ヶ淵」「怪談牡丹燈籠」「怪談乳房榎」「塩原多助一代記」「文七元結」など多数あります。

平成25年3月 墨田区教育委員会

このように、全体的に効率よく収まっている児童遊園の道向いには、亀沢2丁目地区の会館と思しき「亀二会館」があります。

こちらはマンションの建物と一体化している効率の良さです。

都会ならではのコンパクトさが気に入った亀沢第一児童遊園でした。

(2017年9月訪問)

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