日進公園は、墨田区の社会福祉施設である「家庭センター」と一体的に整備された公園です。
ただし、私が訪れた時は家庭センターが老朽化に伴って解体される工事中で、公園も半分くらいが立入禁止になっていました。
家庭センターのエントランスになっていた部分、遊具などは大半が閉鎖されており、出入りができたのは樹林になっている部分だけです。
樹林地の中にたたずむアート作品「母子像」は、おそらく数十年に渡って、多くの子供たちがよじ登ってきたことでしょう。
●現地の解説板より「母子像」
この石の彫刻は、母子の愛情の原型を表現したもので「愛情」「平和」を訴えています。
「円満な家庭づくり」「世代間の交流」を目的としている家庭センターの象徴として最もふさわしい母子像です。
墨田区家庭センター
工事のために園路の一部が封鎖されており、代替の通路としてローラースケート場を通り抜けることになっていました。
最近では本来の目的にはあまり使われていないでしょうし、建物の工事が終わった後は公園施設も改修されるようですので、私がこの姿を目にするのも最後かも知れません。
ローラースケート場の縁石に立つと、封鎖されている工事フェンスの向こう側を覗き込むことができました。
周囲よりも沈み込んだ大きな砂場の中に大きなコンクリート製の飛び石がある、ちょっと不思議な遊び場になっていたようです。
現状の公園としてはあまり記事にできることもないので、この公園について調べたことを簡単に書き留めておきます。
この公園、立地といい規模といい、小学校の跡地っぽかったので、戻ってから調べてみると、Webで見ることができる毎日新聞の『昭和毎日』に掲載されている1956年(昭和31年)の地図では、この場所には区立の日進小学校があることになっています。
ところが日進小学校について調べてみると、墨田区立緑小学校のHPに掲載されている沿革の1946年(昭和21年)4月に、「江東・二葉・日進・本所の各国民学校併置を廃止し、横網・亀沢・東両国・緑町の全域を学区域とする」と書かれています。
つまり、戦争で焼かれた日進小学校は、形の上では緑小学校に併設されて(児童や職員は緑小学校に集まって)しばらく存続していたものの、それを廃校として、正式に緑小学校が各校の旧校区全体を学区域として再出発した、と読み取れます。
そこで日文研データベースの中で公開されている1947年(昭和22年)の東京都區分圖 : 墨田區詳細圖を見ると、校舎らしき建物が示されていますが学校名が入っておらず、上の「1946年に統廃合された」という内容と辻褄が合います。
ちなみに墨田区の郷土文化資料館の資料「みやこどり」第52号によれば、廃校後の校舎は戦災者住宅「日進復興館」に転用され、1968年(昭和43年)まで使われたとのことです。
そして公園としての開園は1971年(昭和46年)のことですので、その後に旧校舎を取り壊して家庭センターと公園が作られたとすると、年次の流れが合います。
こうして並べてみると、昭和毎日の記載が間違っているように思うのですが、一方で1950~60年代は人口急増で都心部で分校が設けられたりした時期でもありますので、日進復興館の一部が小学校施設として再転用されていた可能性も捨てきれません。
この辺については、きっと公園の再整備が進むと、何らかの資料として出てくるような気がするので、それを気長に待ちたいと思います。
(2017年9月訪問)
(2017年9月訪問)
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