2017年9月16日

1586/1000 西今福公園(大阪市城東区)

西今福公園は、大阪市城東区の住宅地の中にある小公園です。
公園の直近には新しい大型マンションが建っていますが、付近では元々は寝屋川の堤上を街道が通っており、少し歩けば古い町並みも残っています。


公園の中から道路を方を向いているお地蔵様などは、古い町の姿を伝えているものでしょうか。

園内は大阪市街地に多いパターンで、広場部分をあまり明確に取ることはせず、敷地の中に遊具や高木がバラバラと散らばるような格好で配置されています。

遊具は、滑り台と雲梯がくっついた複合遊具、ブランコ、鉄棒などがあります。

屋根が骨組みだけのスカスカで、あまり日除けにならなさそうなパーゴラもありました。

ところで、この公園から20メートルほど離れたところに小さな稲荷社があり、これの横手に「大坂冬の陣古戦場 今福・蒲生の戦い跡」の石碑が建てられています。
この戦いは、登場するのが後藤基次、木村重成、佐竹義宣、上杉景勝など高名な諸将であり、大坂冬の陣の諸戦の中でも有名なものとなっています。

しかし、その割にはこの石碑が建てられたのは2015年(平成27年)と、ついこの間のことで、翌年のNHK大河ドラマ「真田丸」の放映に間に合うように慌てて建てたのではないかと思われます。
●現地の解説板より「今福・蒲生  激戦地の跡」
慶長19年(1614)大坂城攻撃のため、現在の天王寺茶臼山に本陣を置いた徳川家康の命により、今福・蒲生には秋田城主佐竹義宣、鴫野には米沢城主上杉景勝が、大軍の陣を置いた。
今福・蒲生と鴫野は大阪城の東北に位置している。旧大和川(1704年に付け替えられ、現在は大阪市と堺市の境にある)をはさんで、佐竹軍は北側の今福・蒲生、上杉軍は南側の鴫野と、南北に布陣した。豊臣秀頼は大野治長に命じて、三重の柵を作り、この地域を守っていた。
11月26日未明、佐竹軍は今福・蒲生方面を攻め、上杉軍は鴫野の豊臣方の砦に向った。双方ともに豊臣方と激突し、大坂冬の陣最大の激戦となったのである。
初戦、徳川方が優勢で、まさに砦を攻め落とそうとしていた時、大坂城内より木村重成・後藤又兵衛基次が旗下の兵を指揮して駆けつけた。両勇将は先頭を切って反撃し、破られた砦を取り返して勇猛に戦った結果、佐竹軍は死傷者続出。ついに佐竹義宣は鴫野の上杉景勝に応援を求め、佐竹・上杉両軍が合流。ようやく豊臣方の追撃を食い止めることができたのである。
この今福・鴫野合戦では、両軍とも死傷者、数知れずであった。合掌
調査 廣田宗一郎
当時、今福・蒲生一帯は水田や沼地で、戦いは堤や街道沿いで行われたと考えられる。当地は「東成郡誌」によると、旧鯰江川北岸、今福堤(野田・古堤街道)の上にある。
平成27年(2015)3月吉日
石碑題字書 松本笙絢
寄贈 富士谷清

さらに、私が訪れた3ヶ月前に、もっと古い時代の地域の様子を偲ばせる「丸木舟出土跡」についての解説板も建てられていました。
文中にある鯰江川の跡は、この稲荷社から10メートルほど南、今福交番の前を通る道がそれにあたります。
●現地の解説板より「今福の丸木舟出土跡」
大正6年(1917年)5月7日今福村(現在の今福西1丁目)の「鯰江川」(現在は埋め立てられて道路)の三郷閘門樋工事のとき、当地の川底から、楠の大木を半分に割ってくり抜いた大きな丸木舟(くり舟)が掘り出されました。
この丸木舟は複材式の構造で、大きさは長さ13.46メートル、幅1.89メートル、深さ0.818メートルと大型なものであり、古墳時代から奈良時代のものと推定されます。
この出土した丸木舟は、昔このあたりが、大阪湾の海水が流入する海(河内湾)から淀川・大和川の沖積作用により次第に湖沼(河内湖)へと変わり、池や沼が点在していた頃、古代人が水上交通に用いていたものと思われます。
発掘された当初、舟は三郷橋(この地から南東約30メートルの地点にあったと思われる)の近くに置かれ、各地から弁当持参で見物に来る人もあったそうです。
その後昭和になって大阪城内に展示されましたが昭和20年(1945年)の空襲で残念ながら焼失しました。(参考文献:城東区史、大阪市史、考古学雑誌)
平成27年3月 城東区役所

でも、そんな大事なことがたくさん書かれている石碑や案内板、お稲荷様の周りが家庭ゴミの収集場になってしまうあたりが、大阪らしいと言うべきか。

(2017年6月訪問)


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