もともと「天下茶屋」と呼ばれた茶屋は公園から250メートルほど下がったところ、No.1570で登場した天神ノ森天満宮の目の前にあるのですが、こちらの公園も名前を借りただけではなく、それなりに由緒正しい場所であるようです。
すなわち、この公園がある場所に、秀吉の時代から少し下がって江戸時代の始めに開業した是斎屋という薬屋が、店先で薬湯を試飲させて評判となり、両方が天下茶屋として並び立っていたそうです。
●西成区HPより「是斎屋跡」
現在の天下茶屋公園が是斎屋の跡であり、公園東口の横に石碑が立っている。薬屋是斎屋は寛永年間(1624 - 44)近江の国の津田宗右衛門が住吉街道に面した当地へ来て「和中散」という薬を商ったのが起こりで、街道の旅人達で大いに繁盛したという。また茶屋としても有名であった。
是斎屋さんがいつ頃まで繁盛していたのかは知らず、別の豪商の屋敷になっていたのかも知れませんが、とにかく幕末・明治になってもお金持ちが住んでいたことには違いなく、明治天皇も行幸の際にこの地で休息を取っています。
それから数十年後、昭和初期の時流の下で建てられた明治天皇駐蹕遺址碑は、今も公園の真ん中にドッカリと置かれています。
その石碑の隣に置かれているのが、安倍寺塔心礎。
解説板によれば元々は阿倍野区松崎町といいますから、ここから1.5kmほど離れたあべの橋駅の近くにあったもののようです。
解説板にはなぜ松崎町からこの公園に移されたのかが書かれていませんが、勝手に想像すると、近代になってからこの場所に屋敷を構えていたお金持ちが、庭の手水鉢として持って来てしまったのではないかと思います。礎石や古墳の石棺などには、よくある話です。
●現地の解説板より「安倍寺塔心礎(大阪府指定有形文化財)」
安倍寺は安倍氏の氏寺ともいわれる奈良時代の寺院で、現在の阿倍野区松崎町の松長大明神の一帯にあったと伝えられている。
この石は安倍寺の塔の中心となる礎石と考えられ、中央に直径61センチ、深さ13センチの柱穴を掘り、さらにその内部に直径10.1センチ、深さ8.2センチの舎利を埋納するための穴がある。
当初は松崎町にあったが、現在はこの天下茶屋の地に移されている。昭和49年(1974)に大阪府指定有形文化財に指定された。
大阪市教育委員会
公園の北側入口付近にある石組みや東側入口に付近にある巨石も、庭園の遺構のように思うのですが、実際のところどうなのかはよくわかりません。
さて、石碑の話ばかりになってしまいましたが、いよいよ公園全体の話に突入です。
敷地の北側と東側は、なんとなく邸宅の名残っぽい大きな樹木が茂る林になっています。
周囲は住宅が建て込んだ地区なので、ランドマークとしても重要な緑だと言えましょう。
林の足元は、きれいにヤブランが敷き詰められているところがあるかと思えば、草ぼうぼうのところもあって、イマイチどういう管理をしているのかがわかりません。
そして敷地の南側・西側が遊具広場になっています。
この部分に関しては大阪市内によくあるタイプで、広場内に遊具と高木をバラバラと散らばらせたような配置になっています。
そして、これも大阪市らしいと言えば言えなくもない、寝転がらせないようにした石製ベンチ。
人が座れるスペースを削ってでも、障害物を付けようとする姿勢、付けざるを得ない判断に色々な思いが生じます。
訪れたのは平日の夕方だったのですが、夕涼みがてらに出てきている人が思いの外多くて、写真が少なめになってしまった天下茶屋公園でした。
(2017年6月訪問)
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