三木上の丸公園は、羽柴秀吉による2年間の兵糧攻めで城攻めで有名な三木城跡の中心部を公園としたものです。現在、城跡全体からすると公共施設や神社などとして使われている部分が広いのですが、地形そのものはよく残っていると見受けられ、なんとなく曲輪の形などもわかるようになっています。
●現地の解説板より「国史跡三木城跡(三木城跡及び付城跡・土塁)」
平成25年3月指定三木城は上の丸台地上に築かれた丘城です。15世紀後半に別所則治によって築かれたと考えられます。天正6年(1578)年から同8年、東播磨最大の勢力を誇る三木城主別所長治と織田信長の武将羽柴(後の豊臣)秀吉の間で起こった三木合戦では、「三木の干し殺し」と呼ばれる兵糧攻めが行われました。
落城後も三木が播磨における京都や大坂からの入口として重要な場所であったため、主に豊臣家の直轄地として城代、城番が置かれました。慶長5年(1600)池田輝政の姫路入封に伴い、姫路城の支城となった三木城には、家老の伊木忠次が入城しましたが、元和元年(1615)の一国一城令によって廃城となりました。
構造は、本丸・二の丸を中心部とし、新城・鷹尾山城・宮ノ上要害で構成され、南側は山と谷、他三方を崖に囲まれています。土造りの城としては、播磨の中でも最大級の規模を誇っています。
平成25年3月、領主の居城と攻城側の付城が一体的に残る貴重な事例として、三木城の本丸・二の丸・鷹尾山城跡が、平井山ノ上付城跡(秀吉本陣跡)などの付城跡とともに国の史跡に指定されました。
一方で公共施設が多いだけに、どこまでが「公園」の範囲なのかわかりにくく、保育所の横を歩いていると、いつの間にか広場に出ているような塩梅です。
特別な復元整備などは行われておらず、修景用に土塀が築かれていることくらいです。
塀越しに見えているのは、もともとの三木市の中心市街地の本町地区、そしてこの城の防御ラインでもあった美嚢川です。
あと、絵物語風の「三木合戦図」が飾られているので、合戦の経過などもよくわかります。
ほかには、この階段を登ったところに、最後の城主・別所長治の辞世の句が刻まれた石碑があります。
こちらは別所長治公石像。
横に市が設置した仮設の解説文があるのですが、わざわざ「ライオンズクラブがイメージで作ったもので、史実に基づいた姿ではありません」と断り書きが入っています。
経緯はわからないのであくまで想像ですが、国史跡として指定を受けると、オーセンティシティ(Authenticity;真正性)に対する目が厳しくなりがちです。
オーセンティシティについては色々な議論があるのですが、行政の現場では「史実・史料・研究等に基づくものは設置して良いけれど、それ以外のイメージ銅像などはダメ」という形に展開されがちなので、そうした配慮が働いてしまったのかも知れません。
もっとも、本丸の一番目立つ場所には招魂碑があるように、史跡と言えどもその時々の都合で使われ方が移ろうのは仕方のないことなのですが、国の指定を受けるとなるとそうも言っていられません。
ほかに用事があって、駆け足で通り抜けてしまった三木城跡上の丸公園でした。
(2017年6月訪問)
【2022年6月追記】
久しぶりに近くを通りがかったら、なんだかスゴい巨大看板ができていました。隣にある高さ制限3.8mの高架と見比べても、巨大さがわかろうというものです。
場所がわかりにくいのは事実なのですが、この看板はちょっとやり過ぎではないかな、と思います。
実際の上の丸への登り口はこれなので、まず毛糸屋さんにお願いして登り口の案内板をつけさせてもらう方が先立ったのではないかと。
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