大阪市の地名「阿倍野(あべの)」は、古代の豪族・阿倍(安倍)氏が本拠としていたことに由来するとされます。阿倍氏と言えば、阿倍比羅夫、阿倍仲麻呂などがいますが、とくに有名なのが安倍晴明ではないかと思います。
と言うわけで、阿倍野区に今も残る清明神社の近くにあるのが清明丘(せいめいがおか)公園です。
とは言え、付近の地名が晴明丘なだけで、公園そのものに安倍晴明に関わるようなものは何もありません。
道路に面した間口が狭く、奥に進むと広くなる旗竿型の敷地となっています。
奥の広いところに広場を取りたいからでしょう、出入口に近い狭い部分にブランコと鉄棒が並んで置かれています。
少し窮屈な配置のようにも思いますが、意外に子供たちはこれくらいの小ぢんまりした方が好きだったりもします。
さらに地域の防犯活動で使うという詰所もイチョウ並木の隙間に詰め込まれていました。
一番奥まで進んで、入口の方を振り返るとこうなっています。
ちなみに一番奥は行き止まりではなく、狭い路地に通じています。
「こんな路地との間に車止めは必要かな?」とも思いますが、自転車くらいは通るだろうし、飛び出し防止の意味はあるのでしょう。
ふたたび園内。
広場部分には滑り台やコンクリート製の遊び台、幼児向けの動物遊具などがあるのですが、どれも古いなりに丁寧に管理されていて、よく使われている様子が伝わってきました。
脚や手すりの曲線形が特徴的な滑り台。現代の遊具にはない美しさがあります。
ところで、この公園の入口付近に「経塚」と刻まれた石柱が保存されており、解説板には「もともとはNo.1560 北畠公園内にある塚(大名塚)の北側にあった」と書かれています。それなら移転場所もNo.1560で良かったように思うのですが、そこは色々と事情があるのでしょうか。
●現地の解説板より「経塚」
上町台地には、難波宮跡をはじめ古代からの様々な遺跡が残っている。古墳については、現在も墳丘が確認できるものは帝塚山古墳などわずかに過ぎないが、かつては多数の古墳が点在していたと考えられている。
熊野街道の周辺には、北畠顕家の墓とも伝えられる「大名塚」や「小町塚」「播磨塚」など、古墳の存在をうかがわせる「塚」がいくつか残っている。
聖徳太子が一字一石経を埋めたとか、空海が写経を埋めたとも伝えられる「経塚」もそのひとつで、江戸助代の地誌『摂津名所図会』には「大名塚」の北のやや離れたところに墳丘と石柱が描かれている。
いつのころからか石柱のみ「大名塚」のすぐ北側の宅地に移り、墳丘は消滅してしまった。
石柱の背面には「了證」とあり、願主と思われる。平成7年(1995)にこの石柱を熊野街道に面した清明丘公園に再度移転した。
平成7年3月 大阪市教育委員会
熊野街道に面した晴明丘公園でした。
(2017年6月訪問)
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