1560/1000 北畠公園(大阪市阿倍野区)

2017/08/20

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阿倍野区北畠は南北朝時代の武将・北畠顕家の墓と伝えられる塚にちなむ町名で、その塚の周りを公園にしたのが北畠公園です
公園としての開園は昭和14年(1939)のようで、園名標柱には「昭和14年11月竣工」とあります。また、園内の石碑は昭和15年5月の碑文があり、有志が浄財を集めて塚の周りの土地を買収し、大阪市に寄付して公園としたことが記されています。

こちらの石碑がそれなのですが、少しかすれているところもあって読みにくいので、だいたいの内容を読み取ると次のようになります。

●碑文をだいたいのところで書き起こし
昭和3年7月同志相謀り、北畠卿顕章会を興し、墓域拡張修築の為、篤志家の寄附を勧奨し某額5400円を得たり。依って年次祭典を行い墓域隣接の民屋並びに宅地を買収し、以て浄化拡築を図らせんとせしに、時あたかも大阪市に於いて史跡公園として経営せらるるに会いせり。
是に於いて其買収に係る宅地32坪8合と残余金1200円を以て事務所6坪を建設し、之を大阪市に寄附せり。而して会計事務は副会長田中直蔵之を掌理し、ここに全く結了す。依って石に刻して大方各位の高志に酬ゆと云爾。

昭和15年5月22日
北畠卿顕章会長正六位勲三等 武岡元忠誌  宮川黄石書

阿倍野区HPにある『阿倍野の地名・町名の由来』によれば、北畠町という町名は「町名は、王子町の町域内の北畠公園に所在する大名塚を、江戸時代の国学者並川誠所が北畠顕家の墳墓と比定したことにより、当地周辺を顕家戦没ゆかりの地として顕彰し、この地に北畠の名を冠したことに由来する。」とあります。
ここに登場する並河誠所(1668~1738)は、HPでは国学者と書かれていますが、どちらかと言えば伊藤仁斎の教えを受けた儒学者で、いくつかの藩で藩儒を務めています。現地調査を元に『五畿内志』という近畿圏の地誌を編纂し、陵墓や社寺、古跡などについて多くの史料・伝承を取りまとめていますので、この地も実際に訪れたのかも知れません。

さて現在の公園ですが、元々が戦前に人気があった南朝方の忠臣・北畠顕家を顕彰するための場として開かれていますので、仕立てとしては神社のような構造になっています。そう言えば、同じく南朝方の楠木正成を顕彰していたNo.426 楠児童遊園も、鳥居まである神社のような公園でした。
現在までに改修されているとは思うのですが、この園路など参道そのものです。

外周柵も、玉垣のようです。

墓所も垣で囲まれているわけですが、それ以外のところには、滑り台や砂場などの遊具、背伸ばしベンチなどの健康器具も置かれていて、歴史公園としての面と、市街地の小公園としての面の両面を持つ公園となっています。

遊具も健康器具も、どちらも割と新しいものに入れ替えられています。

そして、公園の一角には、上述した碑文に出てきた「事務所6坪」の系譜を引くと思われる顕家会館という建物があります。

現在は集会所兼保管庫のような使われ方をしており、格子窓の向こうに顕家公ご尊像を拝することができます。

●現地の解説板より「北畠顕家公 由緒記」
後醍醐天皇の王政復古の御理想により、源頼朝以来の鎌倉幕府を支配していた執権北條氏を新田義貞他の協力により討ち滅ぼして、建武の中興が成り(1333年)、当時参議近衛中将であった、北畠顕家公は武芸とは無縁の公家の身でありながら後醍醐天皇の命により16歳の若さで陸奥守に任ぜられ、皇子義良親王を奉じ御父親房公と共に奥州へ向かわれ、専ら其の地の鎮護に当たられた。
然るに其の2年後(建武二年)鎌倉にいた足利尊氏が天皇に叛して京へ攻め上ったので、顕家公は天皇の命を受けて奧州、関東の大軍を率い、長駆(※原文では長躯)尊氏の後を追い之を打ち破り、足利勢を九州へ敗走させる武勲を樹てられた。
京都を確保した後、顕家公は再び親王を奉じて奥州に戻られたが、先に敗走した足利尊氏は九州で勢力を盛り返し、又々京都へ攻め上ってきた。
これを迎え撃った楠木正成は湊川で戦死し(1336年)、尊氏は京都に進攻したので後醍醐天皇は神器を奉じて吉野へ逃れられた。所謂何北朝の始まりである。
吉野に遷都された天皇は再度顕家公の西上を促されたので、公は任地である奥州の霊山を出発し鎌倉へ入り、更に伊勢、奈良へと進撃して来られた。
足利方の大将高師直の軍勢と摂津国(大阪府)で対戦、天王寺阿倍野に転戦したが戦利あらず次第に押されて、出発時6万を数えた軍勢も最後には公の身辺を護る者僅かに20数騎となり志半ばにしてついに戦場の華と散られた。時に御年21歳。花将軍と謳われた悲運の貴公子であった。
公は若年ながら高邁な識見と鋭い政治批判力を持ち、その真価は戦死の直前後醍醐天皇への「上奏文」に見事に発揮され、その堂々とした文章と達見は後世に高く評価されている。
当墓は「太平記」等の伝承により江戸期の学者並川誠所の提唱で享保年間(1720年頃)建てられたものである。(
北畠顕家公 顕彰会)

ところで、開園から十数年後の昭和28年の地図を見ていると、この公園として示されている区域が、今よりもずいぶんと広いことに気が付きました。地図の方位・縮尺が異なるので少し見比べづらいですが、現在よりもざっと3倍くらいの広さがあるように見受けられます。

国際日本文化研究センター所蔵地図データベースより
阿倍野區詳細圖 : 最新地番入(1953年発行)
http://tois.nichibun.ac.jp/chizu/

ただ、上の引用図には、ちょうど現在の公園区域と、その上に広がりすぎているところの境界部に手書きの赤線が入っています。これは引用元の日文研が所蔵している地図に書き込みがあるもので、もしかすると元々の地図の持ち主が「この公園区域、間違っとるやないか!」と赤線を引いたのかも知れません。

マピオン電子地図より現在(2017年)
https://www.mapion.co.jp/

この件については調べがつかなかったのですが、また資料が揃えば追記してみたい北畠公園でした。

(2017年6月訪問)

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