日本の都市公園は約10万ヵ所。その1/100なら行けるだろうと思って始めた覚え書きですが、1000ヵ所を超えても続いています。揺れる動物も集めています。

2017年6月23日

1503/1000 稲毛公園(川崎市川崎区)

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首都圏で「稲毛」というと千葉市の稲毛海浜公園が有名ですが、こちらは川崎駅から徒歩5分、川崎市役所からも1ブロックだけ離れた第一京浜沿いの稲毛公園です。
すぐ横には武甕槌神を祭る稲毛神社がありますので(下写真の右奥)、公園名はそこから取られたものと思われます。

大きな交差点の角地にあるため、全体的に通り抜けがし易い広場型の構造になっています。
下写真は第一京浜をまたぐ歩道橋の上、だいたいの利用者が園内を斜めに横切って行く様子を撮影したもの。

立地が良い広場型公園ということで、園内には色々な記念碑・モニュメントが造られています。
まず、水が抜けているので非常にわかりにくいですが、由緒ある弁天池を偲ばせるという池。経緯からして、修景や遊び場を目的とするものではなくモニュメントの類だと判断しました。
●現地の解説板より「弁天池(河崎冠者基家居館堀跡)」
河崎冠者基家は坂東平氏の雄、秩父十郎武綱の子で、平安時代にこの地に移り住み荘園を開いて、その子重家との二代にわたってこの地を領したと言われています。
その居館の跡とも推定されるのがこのあたりです。
当時の荘園領主は、その居館の周囲に堀をめぐらせました。かつて、ここから第一国道に沿って小堤をともなった小川が流れていましたが、このあたりの地名を「堀之内」と言うことからも、それは堀の遺構ではなかったのかと言われています。
また、平氏はその氏神、山王権現をまつるのが常でした。稲毛神社は古名を武甕槌宮と言い、景行天皇とのゆかりを伝える川崎市屈指の古社ですが、慶応四年までは「河崎山王社」と呼ばれていました。
かつては、その小川に接して大きな神池(弁天池)があり、その中の島に和嶋弁財天がまつられており、四季折々に参詣来遊するものが多かったと言います。また、江戸時代にはこの池と小川を利用して「曲水の宴」が開かれておりました。その弁財天と曲水宴の歌碑二基は今も稲毛神社の境内にあって、当時の川崎の文化水準の高さを伝えています。
残念ながら、この池と小川は昭和20年代に第一国道拡張の際に埋め立てられ、その後は、小川をせきとめて造った小さな弁天池だけが残されていました。
今回、稲毛公園改修にあたり近代的な公園にふさわしい姿に造りかえられましたが、この池は、川崎の発祥とも言うべき川崎市居館の堀跡と、宿場時代の町民の優雅な暮らしぶりを今に伝えるものです。

こちらは、1キロほど離れた多摩川に架かっていた旧・六郷橋の親柱。
1925年(大正14年)から1984年(昭和59年)まで使われていたもので、架替後しばらくは倉庫に保管されていたそうですが、2002年(平成14年)に園内に移築されたものです。

ただ、設置場所が公園の隅の方を柵で切り取ったような空間の入口になっているため、親柱というよりは、普通の門柱のように見えてしまいます。

こちらは初代川崎市長を務めた石井泰介(1865~1931)の顕彰碑。
「遺芳千秋」と題されていますが、碑文は漢文のうえ、直近には近寄れないため内容までは読み取れませんでした。
あとで調べてみると、旧・川崎町長から市制施行の際の初代市長に就任し、工場誘致、道路整備などに尽力し、産業都市の基盤を気づいた人物だそうです。
●現地の解説板より「移築の由来」
川崎市初代市長石井泰助大人頌徳碑は、昭和18年6月市内旭町の徳泉寺境内に大人の徳を慕う者によって建設せられ、戦災にも大した損傷なくよく保存されていたが、昭和39年市政施行40周年に当り、これを機会に一層顕彰の実をあげるため大人にゆかりある土地であり戦後公共広場として整備されたこの稲毛児童公園の地域を○○地(転記注釈:○○は汚損により読み取れず)として選定しここに移築したのである

昭和40年7月

こちらは地球の周りをハトが羽ばたく「平和の塔」です。

裏面には、なにかを引っ剥がしたような跡が残っていました。

水の止まった壁泉の上にも、モニュメントが載っています。
写真をよく見て探してみてください。

中央やや右、クスノキの葉陰に隠れるように、踊る少年少女の像がありました。
「見つけたら幸せになれる」という都市伝説でも生まれそうなくらいの目立たなさです。

色々な思いの詰め込まれようを見ると、こここそが川崎区の中央公園なのではと思わせる稲毛公園でした。

(2017年1月訪問)

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