大阪市の北隣にある守口市は、1946年(昭和21年)に旧・守口町と旧・三郷町が合併して生まれ、後に市域北部にあたる旧・庭窪町を合併して現在の形になっています。
このうち旧・守口町は京都と大坂とを結ぶ京街道の宿場町として形成されてきた地区ですが、1910年(明治43年)に京阪電車が開通、1931年(昭和6年)には国道1号線が完成し、同年に大阪市電も守口まで延伸されました。
大阪が近代工業都市として拡大していった波に飲み込まれたわけですが、これら交通網整備によって人口が急増したことなどが影響したのでしょう、1939年(昭和14年)に国道1号線の沿道で区画整理事業が実施され、旧字を廃して新町名が付けられました。
その中に「豊秀町」「日吉町」という、どう聞いても豊臣秀吉にちなんだとしか思えない町名があって、そのうちの日吉町にあるのが日吉公園です。
以前は公園内に市営プールがあったそうなのですが、市の行財政改革の中で市内5ヵ所にあった市営プールは全て廃止され、ここ日吉公園もプールの跡地がベッタリとした広場となって広がっています。
方向を変えて撮影。中央の植え込みを挟んで、右側がかつてプールがあった空間、左側がそのころから園地として整備されていたところにあたります。
プール跡地もそれほど広くはなく、小学校の25メートルプールくらいのサイズだったと思われます。
両側を見比べると、元・プール部分は「プールを撤去した跡を整地しただけ」という印象が拭えず、どことなく間延びした感じになっています。もう少し植栽や園路舗装などを入れて、メリハリのある空間にして欲しかったところです。
いちおう隅の方にブランコと揺れる動物は新設されたようなのですが、空間全体を引き締めるほどのものではありません。
一方、元々から園地として整備されていたところは、いささか古いスタイルですが、落ち着いた景が見られます。
一部には、プールの門前ということでソテツやカナリーヤシを使ってなんとなく南国風、リゾート風の植栽がされています。昭和の頃にはよく見られた光景です。
あと、やはりプールの門前らしく、心身壮健を誇示するような銅像もありました。
が、よく見てみると、隣接していた土居小学校の統合・閉鎖に伴って移転されてきた像だということで、プールとは無関係のようです。
南側の隣地に建った大型マンションの関係で日陰の写真ばかりになっていますが、細長い複合遊具、大人向けの健康器具なども設置されています。
両側を見比べて、部分再整備の難しさを感じた日吉公園でした。
(2017年3月訪問)
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