879/1000 中の館児童遊園(佐賀県佐賀市)

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No.878の佐賀城公園は江戸時代の鍋島家の城でしたが、その藩祖・鍋島直茂が仕えていたのが戦国大名である龍造寺隆信です。
隆信の時代の居城であった水ヶ江城跡は現・佐賀城跡のすぐ隣で、その城跡にある中の館(なかのたて)児童遊園は、隆信の誕生地とされています。

現地の解説板の情報を総合すると、もともとあった隆信の胞衣塚(えなづか;母親の胎盤を埋めた場所)が明治維新後に移設されたものの、なんとか本来の地に戻したいという関係者の熱意でこの土地が購入されて、1924年(昭和4年)に今の胞衣塚が設置されたことで誕生地として固定されたようです。
戦前に確保された公有地が、戦後の新しい制度下で都市公園や児童遊園に位置づけられることは多いので、ここもその例であろうと思われます。

ということで、現在の中の館児童遊園は、龍造寺隆信を顕彰するためのものと、地域の子供たちのためのものが自然と入り混じった不思議な空間になっています。

なんと言っても敷地内でドーンと目立っているのは、台座を含めれば6~7メートルはあろうかという巨大な石碑。「龍造寺隆信公碑」と刻まれています。

しかし目立つのは良いのですが、これ自体は看板代わりみたいなもので、その左奥に見える小さな塚が、本題の「隆信公胞衣塚」になります。写真ではよくわかりませんが。

肝心の胞衣塚は、塚の大きさに対して周囲の柵が小さすぎて窮屈そうです。また、その前に建てられた史跡標柱は塚に対して大きすぎるように思います。
周囲が広場の続きの砂地のままというのも今ひとつで、この周りだけ芝生にするなど園地としての仕立てが欲しいように思いました。

塚に付けられた銘板には、冒頭で述べたように「この胞衣塚は、明治維新の際に萬部島の鍋島家千部經塔の西側に移されたが、今般、建碑が企画されて土地を購入し、再び塚を旧地に戻すことができた」といった旨が書かれています。

一方、元に帰って大きな碑の方を見ると、訪問した前年に設置された解説がありました。

■現地の解説板より『佐賀市史跡 龍造寺隆信誕生地』
昭和43年2月11日指定
肥前を代表する戦国大名、龍造寺氏は現佐賀市城内一帯の小津東郷龍造寺村の地頭から、戦国の争乱の中で次第に東肥前地方に勢力を伸ばしてきた。明応の頃(1492~1501)に、本家の村中龍造寺家と、分家の水ヶ江龍造寺家とに分かれて、群雄に対する防備を固めた。
五州二島(肥前・肥後・筑前・筑後・豊前と壱岐・対馬)の太守と称された龍造寺隆信は、享禄2年(1529)2月15日水ヶ江城東館天神屋敷で生まれた。誕生碑のかたわらに胎盤を治めた胞衣塚がある。
天文5年(1536)7歳の時に宝琳院に入って出家し、円月と号し、また中納言と称した。天文15年(1546)3月、曽祖父龍造寺家兼(剛忠)が93歳で死去した。龍造寺家は柱と頼む人物を失ったが、家兼の遺志により、中納言は還俗して胤信と称し、水ヶ江龍造寺家を継ぎ、翌々年の天文17年に村中龍造寺家も継いで、龍造寺宗家の当主となり、山城守隆信と称した。
佐賀市教育委員会 平成25年8月

「誕生碑のかたわらに胞衣塚がある」と書かれてしまうと、いろいろと苦労をして胞衣塚を戻した皆さんの苦労が台無しな気もしますが、実際に2つ並べてしまうと誕生碑のほうが圧倒的に目立っているので仕方がありません。

ほかにも、公園の入口にも「誕生地」と書かれた石柱(昭和3年製)、フェンスにもたれかかった小さな標柱などもあるほか、入口脇には手水鉢も置かれており、古い時期にはもっと顕彰の地としての性格が強かったのだろうと思われます。

さらに児童遊園に隣接する自治会館の庭先には龍造寺天満宮もあります。

一方、現代の公園的な要素は、滑り台、ブランコ、ジャングルジムをベースに置いた複合遊具などがあります。

しかし一番は、大きな敷地を避けてなお余る広場。
この日も小学生たちが元気に走り回っていました。

(2014年11月訪問)

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