850/1000 聖徳公園(青森県青森市)

2014/11/21

港にある公園 青森県 青森市 石碑めぐり 発祥の地

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No.849 青い海公園の東端に、これと一繋がりになっている聖徳(せいとく)公園があります。現状はほぼ一体のものですが港湾緑地である青い海公園は県管理、この公園は市管理のはずなので、本ブログでは別々の公園だとして扱います。
歴史は聖徳公園の方がずっと古く、明治天皇ご巡幸の記念碑を中心に1930年(昭和5年)に開園したものです。ただし、港の拡張にともなって場所や区域は何度か動いています。

そして、ここが私の好きな「記念碑大集合」型の公園になっています。

まずこちらが、そもそもの始まりである「明治天皇御渡海記念碑」。碑の正面に刻まれた題字から「景仰聖徳碑」と呼ぶべきなのかも知れませんが、だいたいはこの名で通じるようです。
1930年(昭和5年)に市民の寄付によって建てられたものですが、高さは6メートルほどはあって非常に立派なものです。
この頃は国を挙げて天皇の権威強化が進められていたため、明治天皇が数十年前の巡幸の際に立ち寄った所、泊まった屋敷、軍の調練を指揮した場所などが全国で「聖蹟」として熱心に取り上げられていた時期にあたります。

青森市のHPに「景仰聖徳」の題字は閑院宮の書、と書かれていたので、時代的には閑院宮載仁親王になるのでしょうか。
そして四角張った碑の両側面には、当時の元帥海軍大将と陸軍大将がそれぞれ書を寄せています。
 明治9年7月16日、此埠頭より明治丸に乗御
函館へ御渡海遊ばさる
元帥海軍大将伯爵 東郷平八郎謹書

明治14年8月29日、此埠頭より扶桑艦に乗
同9月7日函館より迅鯨艦にて著御 御上陸在らせる
陸軍大将 一戸兵衛謹書

そして裏面には、昭和天皇が皇太子だった頃に伝育官(教育係)を務めた弥富破摩雄(やとみ はまお)の碑文。古い文体ですが非常に読みやすく、碑のいわれがよく分かります。
明治維新の鴻業成るや、天皇は全国御巡幸を思召立ち給い、我が青森県には明治9年7月、同14年8月及び9月の3回、鳳輦を駐め給いき
嗚呼東奥外濱の民親しく龍顔を拝することを得しは洵に開闢以来の事にして亦盛代の餘澤と言うべし
殊にこの埠頭は当時2回御乗船かつ1回御上陸あらせられし所なり
後年この聖蹟の埋滅せんことを憂い 今上天皇御即位記念として茲に建碑の議起こり、今年は9月の御上陸より恰50年に当たるを以て其の完成を期せり事聞ゆるや官民翕然として之に賛し特に閑院宮殿下は畏くも御題字を賜ひ 東郷元帥、一戸大将亦各揮毫の労を取らる
今施工を竣ふ乃其の来由を記し以て永く後世に伝う
昭和5年11月3日
元皇子傳育官 弘前高等学校教授 弥富破摩雄 謹撰書

横手には、その弥富破摩雄の歌碑。碑の設置自体はいつかよくわかりません。
「とこしへに つたはりゆかむ けふゆのち 明治帝の大御跡所」

碑文は読みやすいとは言っても旧仮名遣いなので今となっては解説が必要ですが、それに替わるものは聖徳公園の由来を記した石碑になります。
しかし、これが設置されたのも50年近く前なので、徐々に石碑自体が文化財の域に突入しつつあります。さらに、この碑はもともとこの場所にあったものではないので(後述)、書かれている内容が現地に整合せず話がややこしくなってきます。
■聖徳公園の由来
この公園は昭和5年8月明治天皇御迎幸御渡海記念碑建設会によって設置され、完成と同時に青森市にその一切を寄附されたものであります。
市は昭和6年7月、明治天皇ゆかりの地としてその史蹟保存の目的から名称を聖徳公園とし一般に公開してきました。
この地先はかつて青森桟橋のあったところであり、明治天皇が明治9年7月、同14年8月および9月の3回奥羽北海道御巡幸の際、この地より御乗船御上陸された由緒の深いところであり、また青森港の昔を後世に伝え物語るに足る思い出の深いところでもあります
青森開港以来340有余年、沖荷役時代からいまは海辺が埋立てられ臨港地区の整備港湾施設の拡充によって大型船舶の接岸荷役に替わり、港勢の発展隆昌は昔日の比ではありません。
いままた臨港鉄道線路を施設するの必要にせまられ記念碑等の施設を再び移転するの余儀なきに至りました
ここに市民の思い出深い聖徳公園をこの地に移し再現をはかり、遠く明治の時世をしのびかつありし日の青森港の海岸線を永遠に記念しあわせて港勢のますます盛んならんことを希念するものであります
昭和43年7月 青森市

記念碑の設置から数年が経ち、ますます天皇の神格化が進んでいく中で、明治天皇の聖蹟は当時の史跡名勝天然記念物保存法(文化財保護法の前身の一つ)の下で国史跡に指定されます。史跡指定されるとそれを示す標柱を建てるのは今も昔も同じで、下の標柱は1937年(昭和12年)に指定された時のもののようです。
聖蹟は最盛期には600ヵ所以上が国史跡となっていましたが、戦後の1948年(昭和23年)に一斉に指定解除されました。
したがって、この標柱は場所が変わっているうえに機能も失っていますので、標柱自体を一種の記念品として保存しているわけです。
■史蹟標柱 明治天皇青森御乗船竝御上陸桟橋址

と、このあたりまでは聖徳公園の本質に因んだ碑なのですが、だんだんと外れ気味のものが混じってきます。
下写真は「皇太子殿下御降誕記念」の碑。裏面はかすれて読みにくいのですが、1934年(昭和9年)建立のようなので、今生天皇(明仁天皇)の生誕記念であるようです。
■皇太子殿下御降誕記念の碑

下は「明治天皇御渡海記念塔」となっていますが、冒頭に登場した記念塔の解説板ではなく、このモニュメント自体が記念塔。
裏面には、地元の青年団が皇紀2600年(昭和15年)を記念して建立を決意、団員の勤労所得によって資金を貯め、昭和17年になって実現に至ったということが書かれています。
その志は讃えるべきだとは思いますが、ほんの数年前にあれだけ立派な碑が建ったところなのに敢えて自分たちだけの碑を建てようと思った意思決定の経過がよくわかりません。と言うか、明治天皇の渡海を記念しなくとも、真っ正直に「皇紀2600年記念碑」を建てても良かったように思います。
これも元々は公園以外の別の場所にあったのでしょうか?
■明治天皇御渡海記念塔

とは言え、上の2つについては、何かと機会を見つけては天皇を礼賛した時代に碑を建てようと思った人が、明治天皇に因む聖徳公園を適地として選んだということかと思います(これらも他の場所から移設された可能性がありますが)。

その流れで下の解説板。
すっかり字がかすれて読みづらい木製看板に「明治天皇御迎幸御渡海記念として昭和5年11月に『景仰聖徳』の石碑が建立され、これを寿ぎ昭和天皇から『銀杏樹』、高松宮殿下から『紅葉』、青山御所から「ツツジ」がそれぞれ贈られ記念樹として植栽した」と書かれています。
でも「それぞれが、どの樹です」といった細かい解説はありません。

確かに園内にはイチョウ、モミジ、ツツジがあるのですが、公園の場所自体が何度も動いていますので(後述)、公園が現在の姿に再整備される際に往時を偲んで植えられたのではないかと思います。だいたい、モミジのほかは数十年経っているとは思えない大きさですし。
だとすると「昭和5年にそういうことがあったよ」という説明だけでは、ずいぶんと言葉足らずですね。

さらに、そのほかに明治天皇の渡海から派生した「海の記念日」関連の一団の石碑があります。
まずは「海の記念日発祥の地」の碑。題字は、公園が再整備された1990年(平成2年)頃に運輸大臣を務めていた大野明です。

なぜここが「海の記念日発祥の地」なのかは、隣にある錨のモニュメントが教えてくれます。
明治9年7月16日、明治天皇東北ご巡幸の帰途、明治丸で青森港を出港、函館を経由横浜港に安着される。
ときに7月20日。昭和16年、この日を海の記念日と定める。
このたび、海の記念日50回を記念して東京商船大学のご好意により明治丸の主錨を複製し、海の記念日発祥の地である此の地に展示し、その由来を後世に伝えるものである。

平成2年7月16日 青森港管理事務所 青森港振興協会

わかりにくいのは、その横にもう一つ白御影の石碑があり、こちらも海の日50周年の碑であること。おまけに建立者に名を連ねるのは、錨のモニュメントにも名前のあった青森港振興協会ほか(会長名ですが)。
結局この3つは、同時期に、同じことを語るために建てられたものということです。
「せっかくなので皆で一緒に立派なものを建てよう」という発想を阻む確執でもあったのでしょうか。

そもそも、錨のモニュメントの碑文を素直に読んでみると「明治天皇が横浜港に着いた日(7月20日)が海の日」なので、7月16日に出発した地である青森港は「海の日発祥の地」ではないと思うのですが、どうなのでしょう。海の日の制定経過に詳しい(公財)日本海事広報協会のサイトにも、青森のことは触れられていませんし... 出発しなければ到着することもなかったという理屈でしょうか?。
まぁでも、こういうのは言ったもの勝ちなのですが。

と、このように時代の異なる多数の碑や、同じことを記念する複数の碑が入り混じってゴチャゴチャしている聖徳公園ですが、この原因となっているのは公園の位置があちこち動いていることで、そのたびに再整備されて碑が動いたり付け加わったりしているからでは無いかと思われます。

現地にも解説板があったのですが、せっかくなのでネットで見られる地図なども参考にしながら経緯を整理すると、まず明治天皇が船に乗ったという明治初め頃の青森桟橋(旧桟橋)の位置については、青森県立郷土館研究紀要『実測明細絵図から読み解く明治の青森』に収められている1892年(明治25年)の地図で、現在の聖徳公園よりも200メートルほど東(柳町通の一本東の南北の通りの北端)にあったことがわかります。

ですので、国立公文書館のサイトで公開されている1945年の『戦災概況図 青森』で確認すると、この道が旧桟橋に突き当たる西側に「聖徳公園」の文字が見えます。

また青森市のHPに戦前の公園の姿が掲載されていますが、海に向かって公園の手前と右手(南側と東側)に柵があって道路らしきものが写っていますので、この位置で間違いなさそうです。
青森市HP『あおもり歴史トリビア(15号)』より引用「聖徳公園の明治天皇御渡海記念碑」

ところが、先に登場した「聖徳公園の由来碑」の設置前年、1967年の空撮を国土地理院の地図・空中写真閲覧サービスで見てみると、その場所には建物があり、代わりに東側の道向かいに灌木植栽に囲まれたオープンスペースが見えます。これが戦後に移転された聖徳公園でしょう。
ただ、現地の解説板にも1968年(昭和43年)に青森港拡張と臨港線(貨物専用線)の整備にともなって移転・縮小した旨が書かれているので、1967年の空中写真で見えているのは整備途中の状況なのかも知れません。ちなみに移転した先は青森税関支署の跡地だそうです。
ただ、これだと由来碑の文中にある「再び移転するの余儀なきに」がよくわかりません。その前にも1回動いているのでしょうか?

その後、平成初めの青い海公園の整備前後に現在の場所で再整備されているため、少なくとも2回(もしかすると3回)場所が動いていることになります。
Mapionの地図を加工
http://www.mapion.co.jp/

ということで、明治天皇の聖蹟に引っ張られ、後からその時々の思いで色々なものを継ぎ足したり動かしたりしていった結果、今のゴチャゴチャ感に至っているようです。
公園の場所が変わることは周辺の土地利用の中で仕方のない場合もありますが、ここのように記念碑がメインの公園では簡単にそれをすべきではないと痛感した聖徳公園でした。

(2014年10月訪問)

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