日本の都市公園は約10万ヵ所。その1/100なら行けるだろうと思って始めた覚え書きですが、1000ヵ所を超えても続いています。揺れる動物も集めています。

2014年5月5日

666/1000 開明中公園(兵庫県尼崎市)

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開明中公園は、阪神尼崎駅のすぐ近く、江戸時代の尼崎城の中心近くにある公園です。
明治の初め、この場所には尼崎藩の藩校・正業館(せいぎょうかん)がありました。「明治になっているのに、藩校なの?」と思ってしまいますが、明治元年は1868年、廃藩置県は1871年(明治4年)ですので、その間はいちおう藩が存続していて藩校も運営されていたということになります。
その後、藩校は小学校に改められ開明小学校となりましたが、2004年春に移転・統廃合され校舎は尼崎市の分庁舎に転用、そして校庭が開明中公園になりました(開明小の跡地ですが、開明中(かいめいなか)公園というのが注意ポイントです)。
■現地の石碑より
明治3年1月に開校した藩校正業館は、同6年11月14日に正業小学校と改め、現在に至る。
ここに創立百周年を迎え、この記念碑を建立する。碑文は正業館督学 中谷雲漢撰の直筆を拡大し刻彫した。
昭和48年11月25日
開明小学校創立百周年事業実行委員会

外周部の植栽や園路など、公園として一定の整備はされているのですが、広場が土敷きなため、かつての校庭の雰囲気が残っています。
校舎も外観的には変化がないため、言われなければ学校のままだと思ってしまいます。

やや古めの無骨な遊具も、小学校時代からの名残のように見えてしまいますが、実際のところはどうでしょう。

しかし、たぶん門は小学校時代のままで、園名のプレートだけ付け替えたもの。

そして、門の横の外壁は戦時中のまま。

 ■現地の解説板より「機銃掃射による弾痕が残る塀」
ここに現地保存している旧尼崎市立開明小学校(元 開明国民学校)校庭の塀には、太平洋戦争末期の米軍機の機銃掃射によると思われる無数の弾痕が残っています。尼崎では1945(昭和20)年3月から8月まで10回にわたり米軍機による空襲があり、当時の尼崎市の報告書によれば死者479人、家屋全焼約1万1千戸、り災者総数約4万2千人という大きな被害を受けています。この弾痕がいつの空襲のときのものであるかについては断定できませんが、同年6月1日午前に大阪・尼崎方面を襲った空襲では、開明地区でも犠牲者が出ており、学校近隣に所在する病院が全焼するなどの被害を受けています。また、米軍の記録によれば、このときの空襲にはB29爆撃機とともに、P51戦闘機が飛来していることが判明しているので、この塀に残る弾痕は、この時に刻まれた可能性があります。戦争の悲惨さ、残酷さを記憶にとどめ、平和な社会の実現を願って弾痕が残るこの塀を保存します。
平成17年3月

(2014年2月訪問)

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