日本の都市公園は約10万ヵ所。その1/100なら行けるだろうと思って始めた覚え書きですが、1000ヵ所を超えても続いています。揺れる動物も集めています。

2013年9月1日

447/1000 求女塚東公園(神戸市東灘区)

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現在の東灘区と灘区の境目あたり、昔の海岸線に沿い、200mほどの間隔を置いて3つの古墳が並んでいます(いました?)。
古い時代には浜街道からよく目立ったのでしょう、二人の男から求婚された娘が「争いはやめて!」と自ら命を絶ち、男たちも後を追ったという伝説に因む塚だとして、真ん中が娘の墓「処女塚(おとめづか)」、東西二つが男たちの墓「東求女塚」「西求女塚」と呼ばれてきました。
それぞれ古墳としての保存状態は異なるものの、3つともが都市公園となっています。

No.446の求女塚西公園でも同じ始まり方をしましたが、話の流れ上、以上再掲。
さて今回は、そのうちの東求女塚古墳ですが、こちらも公園名は「求女塚東」です。なぜ古墳名と公園名が逆さまになっているのか、理由は不明です。

まずは古墳を見学して、と行きたいところなのですが、かつては全長80メートルの前方後円墳であった東求女塚は、明治時代に土取りのためにほぼ破壊されてしまい、今はこんな感じです。
「え?どれ??」と思った方もいらっしゃるかも知れませんが、中央の石積みで囲まれた盛土がそれです。
求女塚東公園(神戸市東灘区)

直径20メートルほどの円筒型の盛土は、地元有志の方が、わずかに残っていた墳丘の一部を整形して記念碑を建てたというもの。
ここまで変形してしまうと「古墳」というよりは「古墳跡」と呼ぶべきのようにも思いますが、明治・大正の頃に人々が古墳に寄せた思いを伝えるという人文的な意義もあるように思います。もっとも、今は子供たちの遊び道具となっていますが。

●現地の解説板より「東求女塚古墳」
東求女塚古墳は、御影塚町の処女塚古墳、灘区都通の西求女塚古墳とともに、「葦屋の兎名負処女(あしやのうないおとめ)」をめぐる悲愛伝説ゆかりの塚として古くから有名です。伝説では兎名負処女をめぐって争った信太壮士の墓だといわれていますが、実際は、このあたりを支配した豪族の墓であろうと考えられます。
現在、墳丘の一部は公園の中に残っていますが、墳丘のほとんどは、土取りによってなくなってしまいました。
昭和57年、遊喜幼稚園の園舎改装工事に伴って行われた発掘調査では、前方部の墳丘の裾部と周濠が発見されました。また公園整備に伴う調査で後円部の裾部も残っていることがわかりました。
これらの調査結果から、前方部を北西に向けた全長約80mの前方後円墳で、墳丘の斜面には石が葺かれていたと分かりました。
東求女塚古墳から出土した遺物は、銅鏡、車輪石、剣、玉などで、明治時代の壁土取りの際発見されました。これら遺物は、現在、東京国立博物館に保管されています。
この古墳の造られた年代は、出土した遺物から、4世紀後半と考えられます。
東灘区役所

こちらが、件の盛土の上に1915年(大正4年)に建てられた記念碑。
100年経ってもしっかりと読むことができる、なかなか立派なものです。漢字ばかりで内容はよくわかりませんが。
求女塚東公園(神戸市東灘区)
求女塚東公園(神戸市東灘区)

この塚が公園の中央部にあり、大雑把に塚の東側が遊具広場、南側が多目的広場になっています。
求女塚東公園(神戸市東灘区)求女塚東公園(神戸市東灘区)

遊具広場に近いところに、阪神・淡路大震災の慰霊碑があります。
こちらの碑も、100年後の皆さんに地震の恐ろしさ、備えの必要さを伝えてくれればなによりです。
求女塚東公園(神戸市東灘区)

阪神・淡路大震災モニュメント位置図(モニュメントマップ)

(2013年5月訪問)

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