No.197(とまり緑地)で触れた泊港から東北側を見ると、天久(あめく)の丘陵地が見えます。今は建物が増えてしまってわかりにくくなりましたが、丘陵の南側(港から見える側)は急傾斜の崖地になっており、古い時代には崖地の緑が航海の目標物になっていたと思われます。
その丘に、タカマサイと呼ばれる一角があったそうです。
「タカマサイとは?」という疑問には、公園内にある史跡の解説板がヒントを与えてくれますが、よく気をつけて読まないとわかりません。
■「與那覇勢頭豊見親逗留舊跡碑(よなはせどとみおやとうりゅうきゅうせきひ)」
那覇市文化財指定史跡 昭和51年4月16日この碑はもと「タカマサイ」とよばれた当地に建てられたものである。
1390年察渡王の時に宮古の與那覇勢頭豊見親が帰順入貢し泊御殿に住まわされた。
ところが、言葉が通じないので、その従者に琉語を学ばせた。従者の一人に高真佐利屋という者がいて、毎夜、火立屋(のろし台)に登り、はるかに故郷をのぞみ「あやぐ」をとなえていた。これにより付近の村民、その旧宅の地を高真佐利屋原とよんだ。
1767年、ここに與那覇勢頭豊見親の子孫が、長さ一丈二尺、幅六尺の地を請い求め子孫拝礼の場として碑を建立した。
この碑は、昔、泊の地が諸島を管轄していた頃の記念碑である。なお、現在の碑は、沖縄戦で破損していたものを、1987年に復元したものである。(那覇市教育委員会)
この説明の中の「高真佐利屋」こそタカマサイなのですね。わかりにくい~。
それにしても宮古島からわざわざ入貢してきたのに、言葉が通じなかったばかりに幽閉みたいな扱いを受けて、おまけに家臣の方があやぐ(宮古民謡)が上手かったのか地名にまでなってしまった與那覇勢頭豊見親さんは少々気の毒です。
さて、そんなタカマサイのあたりを公園として整備したタカマサイ公園ですが、10mくらいの高低差のある崖地の上と下とに分かれていて、上下の行き来は階段のみという構造になっています。
崖の下は遊具広場。ブランコ、揺れる動物、トイレ、水飲み場などがあります。
崖の上は、先ほどの説明板がある與那覇勢頭豊見親の拝所に向かう入口です。公園の園名石の横から、いきなり崖に突き出したデッキ通路を歩いて行かねばなりません。もう少し余裕のある構造にはできなかったのでしょうか。
たまたま台風の翌日に訪れたため、デッキ通路には何本も樹が倒れて込んでいました。
こちらが與那覇勢頭豊見親を祀る拝所。こちらも倒木でおおごとになっています。
じつはこの写真の左端の柱の影に、上の解説板に出てきた「1987年に復原された石碑」があります。倒木がひどくて上手に近寄った写真が撮れませんでした。
拝所付近からは、ビルの隙間を縫ってなんとか海が見えました。タカマサイさんが海を見て故郷の宮古島を思っていた頃には、もっと視界が開けていたことでしょう。
今日拝所にお参りしてきました 2021年12月11日
返信削除匿名さま
返信削除こんにちは、ブログ作者です。コメントありがとうございます。
そういえば最近、泊~新都心の方にも行けていなくて、倒木に遮られて近づけなかった拝所の写真も更新できていないままです。
コロナが落ち着いたら改めて訪ねて、きちんと全体を紹介できる記事に修正してみたいと思います。