4104/1000 背戸口公園と旧南海電鉄平野線平野駅跡プロムナード(大阪市平野区)

2025/11/24

身近な公園 大阪市平野区 大阪府 鉄道遺産

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大阪市南部の平野(ひらの)は、平安時代にはすでに村が開かれており、戦国時代には土塁と環濠とで囲まれた「環濠都市」として栄えた町です(以前に訪ねたNo.1669 平野公園では、平野郷の東南あたりの土塁と環濠の跡を見学しました)。
江戸時代も中河内の農村と大坂との中継点として栄え、やがて明治・大正になると、大阪市街地と結ぶ鉄道が敷設されます。

先にできたのが大阪鉄道(現在のJR)平野駅で、次に阪堺(のちに南海)平野駅が1914年(大正3年)に開業します。ところが、昭和中期に沿線人口が爆発的に増えたため、路面電車の区間もある平野線では対応しきれなくなり、大阪市営地下鉄が平野まで延伸され、平野線を廃止することになります。
この廃線跡地を使っているのが、背戸口公園と旧南海電鉄平野線平野駅跡プロムナードです。

まずは元・西平野駅付近に設けられている背戸口公園。
細長い園内の端から端まで線路の模様が付いており、鉄道敷跡であることを強くアピールしています。まぁでも実際は、こんなに湾曲した線路ではなかったと思いますが。

なかには、分岐していった後に公園外に出ていってしまう路線もあるため、電車ごっこには要注意です。

うっすら駅ホーム風のステージも設けられており、南海平野線の全体像を知ることができます。
しかし、そういう大切なモニュメントに見苦しい「禁煙」の貼り紙をしてしまうセンスは、なんとかしていただきたいものです。

遊具は2連ブランコがひとつだけ。

ステージ前を過ぎると、公園の幅が狭くなり、だんだんと緑道状態に収束していきます。
たぶん元々の線路幅は、これくらいのものだったのでしょう。

そして背戸口公園の東端。ここから200メートルほどの区間は、一般道を通ってプロムナードへ向かいます。

交通量が多い国道479号(内環状線)を渡って、プロムナードまでやってきました。
ここから150メートルほど、旧平野駅跡までの区間が歩行者専用道になっており、公共施設名としては「平野本町歩行者専用道」と名付けられています。

敷地幅は背戸口公園終盤のあたりよりも、もう一回り狭く、また線路模様も場所を限って施されています。

例えば、プロムナードの途中に一箇所だけある踏切のところが、それにあたります。
飾り物の信号機も付けられて、デザイン上の重要ポイントであることが示されています。

交通安全上も重要な場所なので、両側の道路からプロムナードに対しては、かなり強固な車止めが付けられています。

もうしばらく進むと、このプロムナードでは唯一の広場が表れます。
プロムナードの整備時に、ちょうどうまい具合に横の土地を取得できたのでしょうか。

ここの目玉は、旧平野駅の駅舎デザインを取り入れたという休憩所の屋根兼照明灯。
実際に、こんな感じの八角形の屋根が、駅舎入口に架かっていたそうです。

それから、隣の家との間の目隠し壁に描かれた、かつての平野線の車両のイラストです。

■現地の解説板より「平野線とモ205型電車」

南海平野線は大正3年4月26日 今池・平野間の開業以来、大阪市東南部の重要な足として地域の人々に親しまれてきましたが、地下鉄谷町線天王寺・八尾南間の開通により昭和55年11月28日、66年の歴史をとじました。
モ205型電車は、開業当初の木造車を昭和10年代に鋼製化したもので、通称く改造車>とよばれ平野線で活躍しました。
また、広場中央の照明塔屋根は八角形の欧風木造建築物として建築史上もユニークな平野駅駅舎のイメージをとり入れたものです。

そして、ここが平野駅跡。プロムナードの終点です。
始発駅なので、島式ホームの両側に線路があった様子を、なんとなく表現しています。

おそらく、ホームからは少し出た、今は赤いブロックで舗装されているあたりに八角形の屋根が架かっていたのかと思いますが、今はその名残などありません。
どちらかと言えば、ここに休憩所が欲しかったようにも思います。

プロムナードから出たところは、かつての環濠都市・平野の西端であり、平野線が来ていたころは商店街として賑わっていたはずの西脇門筋。
ここからは電車のことは忘れて、まちなみ探訪へと繰り出します。

(2025年8月訪問)

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