137/1000 十思公園(東京都中央区)

2012/09/18

関東大震災復興 公園門 身近な公園 中央区 東京都 日本の歴史公園100選 歴史公園

t f B! P L
十思と書いて「じっし」と読みます。関東大震災からの復興公園で、公園名は他の復興公園の例にもあったように隣接の小学校名からとられたものです。
小学校名が付けられたのは明治初めのなにかと意気軒昂だった時代で、中国の歴史書『資治通鑑』にある「十思之疏(じっしのそ)」という天子がわきまえるべき10の心得と、当時の学区制で第十四小区に属するので「十四」の語と音が通じるところからとられたいうことです。
もう今となっては、真面目なのかダジャレなのかすらわかりません(笑)

公園がある場所は、江戸時代の伝馬町牢屋敷があったところです。No.77の中大江公園で江戸時代の大坂の牢屋であった与左衛門町牢屋について触れましたが、知名度では伝馬町牢屋敷に敵うものではありません。
しかし、牢屋敷が廃止されてから関東大震災が起きるまでの期間はどうなっていたのだろうかと思い調べてみると、明治の頃はいくつかの社寺が並んでいたようです。gooの明治地図には、今も公園の隣にある祖師堂(身延別院)、大安楽寺の名前が見えます。
身延別院のサイトによれば、明治になって牢屋敷が廃止された後、住む人も無く放置されていた跡地に法華の道場を建立して亡霊達を慰めようとした上人・信者の奔走により堂宇が築かれ、錦絵に描かれるほど繁栄したものの、関東大震災で倒壊焼失したとのことです。
十思公園(東京都中央区)
現在の身延別院

さて、現在の公園ですが、北側の入口は比較的近年に改装されたようで、和風の門構えがあります。牢屋敷のイメージに引っぱられたのかも知れませんが、公園そのものは日本庭園風ではありませんので、全体からすると違和感のあるデザインです。
十思公園(東京都中央区)
北側の入口

公園の北側は修景池があり、その畔には「吉田松陰終焉之地碑」「杵屋勝三郎歴代記念碑」「忠魂碑」が建てられています。

安政の大獄で伝馬町牢屋敷に収容された吉田松陰は、そのまま獄内で斬首に処されました。したがって、ここがまさしく終焉の地。
辞世の句が刻まれた石碑は公園の隅の方にあり、本人の知名度の割には目立たないものになっています。解説板では「昭和14年に十思小学校校庭に留魂碑が建設された」となっていますので、どこかの段階で公園に移設されたものかと思われます。
十思公園(東京都中央区)
吉田松陰終焉之地の碑

杵屋勝三郎記念碑は、碑の前に灌木の植え込みがあって近寄れないため碑文が読めず、三味線を弾く以外にどういう人なのかわかりませんでしたが、調べてみると長唄三味線方の名跡で現在は8代目勝三郎が活躍中だそうです。
市松模様やブロンズのレリーフと住み分けて描いた三味線など、石碑自体のデザインも面白いので、もう少し手入れをしっかりとしてあげれば、と思いました。
十思公園(東京都中央区)
杵屋勝三郎

石碑たちの中で一番大きく目立っているのは忠魂碑。両脇に表忠碑、平和の碑を従えています。
忠魂碑の書は乃木希典です。写真右後ろに隠れている表忠碑は元の陸軍大将で帝国在郷軍人会会長も務めた鈴木荘六の書ですが、知名度の差なのか建てられた時代の差なのか、両者の大きさの違いが際立ちます。
十思公園(東京都中央区)
忠魂碑、表忠碑、平和の碑

公園の南側は広場です。
広場の中心にサークルベンチに囲まれたケヤキの木があり、なかなか良い景観になっています
十思公園(東京都中央区)
広場を北側から見る
十思公園(東京都中央区)
遊具はこれくらいです

その横にあるのが都指定文化財「銅鐘 石町時の鐘」です。
これは江戸時代にこの近くの石町(こくちょう)で実際に使われていた時告げの鐘で、明治になって廃止されて鐘だけが保管されていたものを東京市が寄贈を受けることとなり、公園開設時にコンクリート製の鐘楼を建設して鐘を持ってきたものだそうです。
十思公園(東京都中央区)
石町時の鐘
 十思公園(東京都中央区)

ところで、十思公園隣の十思小学校は1990年に廃校となり、現在は十思スクエアという名前の福祉系の総合サービス施設になっています。ちょうど訪れた時は改修工事中で、公園側にも一部工事区域がはみ出してきていました。
公園に隣接していた体育館やプールを撤去して、新たに特養老人ホームを建てる工事とのことですが、せっかくの機会なので、もういちど公園との関係を見直して一体的に利用できる建物にして欲しいものです。
十思公園(東京都中央区)
工事中の十思スクエア(旧・十思小学校)

中央区十思スクエアについてのページ
日本の都市公園100選&歴史公園100選 

(2012年8月訪問)

【2017年4月追記】
この記事を書いてから5年近く経ち、その間に近くまで行くことがあってもなかなか十思公園に立ち寄る暇がなかったのですが、この度やっと訪れることができました。
十思スクエア側の工事にあわせて公園内もかなり改修されていましたので、その辺を加筆しておきたいと思います。

まず北口が、階段からスロープに改修されました。それに合わせて通路両側の植え込みも全部入れ替えられています。
ここまでやりかえるのであれば、いっそ植栽も門も取り払って通路幅を広げ、車椅子でもすれ違いができるようにしても良かったと思うのですが、この和風の門だけは譲れなかったようです。

「植え込みが茂りすぎていて、近づいて碑文を読むこともできない」と書いた杵屋勝三郎の記念碑は、手前に飛び石の通路が作られて、ちゃんと読めるようになりました。

吉田松陰の石碑の周りも、少しすっきりしました。

遊具広場は、遊具が全面的に入れ替えられ、また足元に事故防止のためのマットが敷かれて今風の姿に生れ変りました。
カラフルな複合遊具、一人乗りのブランコ、屋根の付いた砂場などが設置されています。

以前は全体が広場であり、かつ通り抜けのための通路のような状態だったのですが、バリアフリー対応の必要性もあって、広場の端の方に舗装された園路が作られました。

東京都の指定文化財である「石町時の鐘」の周囲はあまり変わりませんが、背景部分に十思スクエアの新建物ができあがっています。

この新しい建物の壁にひっつくように、工事に先立つ発掘調査で出土したという伝馬町牢屋敷の壁の石組みが展示されていました。広い牢屋敷の端っこの方を一部だけ復元してあるので、かつての姿を思い浮かべるためには、かなりの想像力が必要です。
●現地の解説板より「地下から現れた牢屋敷の石垣」
江戸時代、この地には牢屋敷がありました。天正18年(1590)、江戸の地に徳川家康が入った当初は、牢屋敷は常盤橋門外、今の日本銀行あたりに置かれていました。この地に移転したのは慶長18年(1618)ころといわれ、その後は江戸時代を通じて牢屋敷がありました。
明治維新後、明治8年(1875)に市ヶ谷の監獄に囚人を移し、この地の牢屋敷は取り壊されました。
平成24年、この地で中央区の施設が建設される前に、中央区教育委員会が「伝馬町牢屋敷跡遺跡」として発掘調査を実施しました。遺跡からは、ここの移築復元した石垣をはじめとして、複数の石垣の連なりが発見されました。牢屋敷は高さ7尺8寸(約2.4m)の高い塀で囲われていたようですが、出土した石垣は、さらにその内側でもしっかりと敷地内を仕切っていたことがわかった貴重な発見です。石垣には一部途切れる箇所があり、そこに門柱の礎石が見つかりました。これは、角度によって門が見えにくい「埋門(うずめもん)」と言われる、お城などによく用いられた施設と推測されます。
このほか、多数の上水木碑が見つかっています。木で組まれた水道管が地中に埋められたもので、水は井の頭池などに水源のある神田上水から引き込まれたものと思われます。
ここに展示してあるものは、図中の石垣Aを出土時とほぼ同じ形に積み直して移築復元したものです。これ以外のものには、当時の姿ではありませんが、同じく牢屋敷跡から出土した石を使って積んだものもあります。石は伊豆周辺で切り出された、主に安山岩が四角錐に加工されたものです。石には切り出す際についた矢穴という窪みが見られるものもあります。

平成26年 中央区教育委員会

ただ、十思スクエアの建物の方には地下遺構の展示があったり、室内で模型展示があったりするそうなので、次の機会にはそちらも訪れてみたいものです。

ブログ内検索 Search

アーカイブ Archive

地図 Map

問い合わせ Contact

名前

メール *

メッセージ *

Facebook Page

QooQ