有栖川宮記念公園(ありすがわのみやきねんこうえん)は、江戸時代には盛岡藩南部氏等の屋敷、1896年(明治29年)からは有栖川宮威仁(たけひと)親王の御用地に、後は高松宮家に引き継がれ、ここから当時の東京市に下賜されて、威仁親王の没後20年にあたる1934年(昭和9年)に公園として開園したものです。
有栖川宮家と言えば、戊辰戦争の折に新政府総裁・東征大総督を務めた有栖川宮熾仁(たるひと)親王が有名ですが、威仁親王はこちらの異母弟にあたります。1895年(明治28年)、兄が腸チフスでの静養先だった舞子別邸で亡くなったことで宮家を継ぎ、その翌年に、この場所を御用地として入手します。
当初は、王子である栽仁王(たねひとおう)の新邸造成用地と想定されていたようですが、1908年(明治41年)に、栽仁王は20歳の若さで病没してしまい、用地は使われないままになります。そして1913年(大正2年)に威仁親王が亡くなった際に、嗣子がいなかったことで有栖川宮家は断絶するのですが、その祭祀や土地などを継承する形で高松宮家が創設されて、その高松宮家から公園用地が寄付された格好になります。
ということで、まずは公園中央の記念碑広場に。ここに、公園設置の経緯が簡単に書かれた碑文があります。
■現地の碑文より「有栖川宮記念公園」
位置:港区麻布盛岡町、広尾町/面積:35,601.12平方米/開園:昭和9年11月17日沿革:この地一帯はもと盛岡藩主南部美濃守の下屋数であったが、明治29年有栖川宮家の御用地となり、大正2年高松宮殿下がこれを受け継がれた。殿下は都民の保健に深く心をよせられ、多年にわたり小学校の郊外授業等に利用させ、また一般児童の入園も許しておられたが、昭和9年1月、御用地の一部を有栖川宮家の記念として本都に御寄付されたのがこの公園である。本都はその御趣旨にそい直ちに造園工事に着手、同年11月これを完工し広く都民に開放したものである。(東京都)
その前面には土敷きの広場があって、先ほどの石碑の正面あたりに騎馬像が飾られています。
ここまでの話の流れからすれば、この土地に縁がある威仁親王かと思いきや、近づいてみると兄の熾仁親王の像でした。それも、ほかの場所で行き場がなくなったものを移してきたもの。
解説板には"ゆかりの深いこの公園"と書かれていますが、今ひとつ腑に落ちない気がします。
■現地の解説板より「有栖川熾仁親王の銅像」
有栖川熾仁親王(1835~1895)は有栖川宮家9代目の親王で、明治維新、西南の役、日清戦役ですぐれた勲功をたてられました。その間、福岡藩知事や元老院議長、 左大臣、近衛都督、参謀総長などを歴任され、明治28年(1895)1月に亡くなられました。
この銅像は大熊氏広作で明治時代の代表的作品の一つとして極めて価値の高い芸術品です。明治36年(1903) 10月10日、千代田区三宅坂旧参謀本部構内に建立したものを、昭和37年(1962)3月1日道路拡幅事業の際、ゆかりの深いこの公園に移設しました。
地形的には、このあたりが高台で、西に向かって大きく下がっていき、最下部には流れや池が造成されています。
下がっていく道沿いは古い時代の斜面林を残しているような巨木がありますが、足下は植栽されたササに覆われて、園路以外にはみ出して近づくことはできません。
坂道を下りきって、池の畔に出ました。中ノ島がある日本庭園で、訪ねた冬場にはカモが何羽か泳いでいました。
池に注ぐ谷・流れが2本あるのですが、こちらの上路アーチ橋が架かっている方の谷は、遡るとすぐに記念碑があった広場に着いてしまうので、どこから水が集まってくるのか不思議なほどです。
一方、こちらの谷は奥が深く、地形的には公園外からも水が集まる形をしているので、比較的水量も豊富です。秋の紅葉の季節など、かなり美しくなるような林です。
自然の渓流のふりをしていますが、あくまで造園的に造られたものなので、この井桁のように、ところどころに意匠を感じさせるものがあります。
この石積みなども、昭和初期に職人さんが積んだものでしょうか。
このほかに幼児の遊び場や芝生広場などもあるのですが、私が訪ねた平日午前中は、保育所などの団体が5~6組来ていて、まったく写真は写せなかった有栖川宮記念公園でした。
(2026年2月訪問)











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