熊内小公園は、No.4023 上筒井公園から北へ100メートルほど離れたところにあり、資料によれば面積は120平米。隣接するマンションの開発に伴って整備されたと思われる狭小公園です。
通りに面して一つしかない階段出入口から園内に入ると、滑り台&砂場とベンチが少々。
滑り台の向こうまで行ってから振り返ってみても、これで全部です。
しかし、それに似合わぬ立派な石碑があり、「中央神学校の跡」と刻まれています。
裏に回ると、銅板に刻まれた年表型の碑文がありました。
■碑文より「沿革」卒業生総数277名、日本本土、旧満州国、旧朝鮮、旧台湾、北米等各地において福音の宣教に活躍し、日本宣教史にその足跡を残す。(1977年5月 中央神学校同窓会建立)
- 1907年:米国南長老教会はオルヴイン主義に立つ神戸神学校を創立する(転記注釈:「オルヴイン」は、碑文の文字が傷んでおり、そう読めてしまう。一般的には「カルヴァン主義」と呼ばれると思うのですが)
- 1927年:米国北長教会立大阪神学校と合同、中央神学校となる(転記注釈:「北長教会」は原文ママ。「北長老教会」の誤記か)
- 1941年:信教の自由を守るために自主的に閉鎖する
- 1945年:戦災により校舎を消失する
- 1907-1938年死去に至るまでS.P.Fulton 校長として在職する
この公園と周りのマンションくらいを含む範囲が神学校だったのかと思い、国際日本文化研究センター(日文研)のデータベースで公開されている1920年(大正9年)発行の『神戸市街全圖』で確認すると、もっと広い範囲でした。
野崎通と町名が書かれてる街区の北を東西に走るのが、道路としての野崎通。現在はもう少し西の新神戸駅近くまで突き抜けているのですが、当時は行き止まりになって、南の市電・熊内停留所の方へ折れ曲がっているところに「神戸神」と書かれた広い敷地があるので、ここが神戸神学校だとわかります。
ただそうすると、現在は貫通している野崎通沿いに建つ神戸市文書館(旧・池長美術館)との関係が今ひとつわかりません。
この建物は、No.635 会下山小公園の回にも登場した、神戸の資産家にして美術収集家だった池長孟(いけなが・はじめ)が、1938年(昭和13年)に私設美術館として建てたものなのですが、1941年(昭和16年)までは中央神学校が存続していたのであれば、1938年当時は、どういう状況だったものかと考えてしまいます。その頃すでに、敷地の一部を道路に供出して、規模を縮小していたのでしょうか。
■現地の解説板より「神戸市文書館(旧池長美術館)」
設計:小川安一郎 竣工:昭和13年(1938)
池長孟の南蛮美術のコレクションを収蔵する私立美術館として建てられました。 外観は、薄い緑がかったタイル張り、六角形の変、南蛮船をあしらった縦長のグリル窓など、1920年代にヨーロッパで流行をみたアール・デコ様式を基調にまとめられています。設計は、住友営繕で活躍した小川安一郎で、常に新しい意匠を積極的に取り入れることで注目される建築家です。「主たる活動の場であった住宅以外の作品としては代表作といえるものです。
なにかを教えてもらうと、またなにか知りたいことが増えてしまう熊内小公園でした。
(2024年11月訪問)
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