3596/1000 大塚・歳勝土遺跡公園(横浜市都筑区)

2024/04/06

横浜市都筑区 古墳 古民家 史跡 神奈川県

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横浜市都筑区にある大塚・歳勝土(おおつか・さいかちど)遺跡公園は、港北ニュータウン開発に際して発掘調査された弥生時代のムラ(環濠集落)と、そこに隣接するムラの墓地とを一体的に保存整備した公園です。
また、横浜市の歴史博物館と橋で繋がっているので、博物館の屋外展示、フィールドミュージアムとしての役割りも果たしています。

でも、公園出入口横の幹線道路沿いには巨大なゴリラの看板(都筑まもる君)が置かれているので、ご近所さんたちは「ゴリラの横の公園」と認識していることでしょう。

現地の解説板によれば、「集落跡が大塚遺跡、墓域が歳勝土遺跡」だと説明されているので、おそらくは旧字の大塚区域から集落跡、歳勝土区域から墓が見つかったのだろうと思います。でもその距離は50メートルほどしか離れておらず、遺跡としてはムラと墓地とは一体のものなので、国史跡としては「大塚・歳勝土遺跡」として指定されています。

■現地の解説板より「国指定史跡大塚・歳勝土遺跡」

大塚・歳勝土遺跡は、今から約2,000年前(弥生時代中期)にこの地方で稲作を始めた人々のムラ(大塚)とその墓地(歳勝土)を中心とした遺跡です。
大塚遺跡では、まわりに大きな満をめぐらせた外周600mにおよぶ大規模なムラ(環濠集落)の全体が発掘され、85軒の竪穴住居跡と10棟の高床倉庫跡などが発見されました。竪穴住居跡の重なり合いや分布の様子から、ムラは10軒前後の竪穴住居に1~2棟の高床倉庫をそなえた人々の集団が、3つ集まってくらしていたと考えられます。ムラのまわりには幅4m、深さ2mほどの溝をめぐらし、外側に土を盛った土塁をもうけて守りを固めていました。
歳勝土遺跡では25基の方形周溝墓が確認されましたが、西側にまだ調査されていない部分があり、総数は30基前後と推定されます。
大塚・歳勝土遺跡はムラと墓が一体としてわかる貴重な遺跡として昭和61年に国の史跡に指定されました。

そもそも、現在の港北ニュータウンのエリアは、早渕川に連なる小河川に刻まれた丘陵・台地が多数の谷戸をつくり、温暖で水も豊かなため、古代から近世・近代に至るまでの遺跡が多いことで知られていました。
そうした地域で大規模な開発が行なわれることになったことから、1970~80年代にかけて、既知のものも含めて268ヵ所で発掘調査が実施され、「港北ニュータウン遺跡群」として知られています。
ただ、残念ながら遺跡の大半は開発事業によって失われ、わずかに保存整備された例の一つが、この大塚・歳勝土遺跡ということになります。

入口から坂を上って園内主要部に至り、本当は先に墓域が見えてくるのですが、話の流れの都合で集落跡から順にご紹介。
柵・堀・逆茂木に囲まれて、遺跡の復元と、施設管理上の夜間閉鎖とを兼ねた門から、環濠集落に入ります。

集落内は数棟の竪穴式住居と高床式倉庫が復元されています。

竪穴式住居は、どれも開園中は建物内まで入ることができますが、とくに模型があったり電灯が付いたりするわけでもないので、全部を見て回る必要はないと思います。

高床式倉庫は、外から眺めるだけ。

再現木橋は実際に渡ることができます。

■現地の解説板より「再現木橋」

環濠の北西端から見つかった、二対になった4個の穴は、出入口にかけられた橋の跡だと考えられます。穴に柱を立てて枕木を乗せ、その上に丸太などの材木を渡して橋にしていたのでしょう。
一方、ムラの南東部には、歳勝土遺跡の墓地に通じる出入口があったはずです。しかしその付近からは、橋の跡は見つかりませんでした。南東部の橋は、再現した橋のように、数本の材木を渡すだけの、よりより簡単な作りのものだったと考えられます。

そのほかに発掘当時の姿を見せる「造形保存」もあって、上屋がないので「竪穴」と呼ばれる構造がよくわかります。

ところで、この環濠集落については、周りを緑に囲まれてセンター北駅周りのビル群が見えにくいよう上手に整備されているのですが、歩いてみると、各地の環壕集落と比べてかなり小さいことに気づきます。

そのことも、園内の解説板に書かれていました。書きぶりは「東側部分を整備」とうっすらごまかしていますが、図を見ると東側1/3ほどだけが保存整備されて、残りの2/3は削られて道路や駅になっていることがわかります。
この図でざっくり測ると、集落の大きさは長さ200m、幅130mくらいの大きさだったようです。

■現地の解説板より「大塚遺跡の保存整備」
弥生時代中期の環濠集落を中心とした大塚遺跡は、港北ニュータウンの開発に伴う事前調査として、昭和48年から51年にかけて発掘調査が実施され、貴重な歴史的文化遺産として、その東側部分が保存されています。
保存整備は調査によって発見された弥生時代の遺跡を約1.5mほどの盛土によって保護し、集落として生活していた様子を再現するため遺構の直上に住居などを復元しました。

結局、このゴリラの後ろにある高さ数メートルに及ぶガケは、開発時に道路を通すために集落跡があった丘陵地を削って作られたものだということがわかり、団地造成のダイナミックさが伝わってきます。

環壕集落を出て、次は墓域に進みます。
ここは多数の方形周溝墓(四角くて、周囲に溝がある盛土のお墓)が25基も見つかったそうです。

ここも住居跡と同じく、いくつかの復元・展示手法が採用されており、割とわかりやすく盛土で復元されているもののほか、

一部を切り取って墓の内部を見せる断面模型的な復元や、

凹凸はナシで、溝の位置だけを石で囲って平面的に表示したものなどがあります。
ちなみに、一般的には方形周溝墓は盛土部分に穴を掘って棺を埋めるのですが、たまに溝の中にも穴が見つかることがあるそうです。
長い間、集落みんなで使っているうちに、だんだんと埋める場所が足りなくなるのでしょうか。

そして、時代はぐっと下がって、江戸時代の民家・旧長沢家住宅を移築した民家園も公園内にあります(無料)。横浜市には、同じように民家を移築した公園がいくつかあり、以前にも鶴見区のNo.1349 みその公園を訪ねました。

横浜市の民家園の特徴は、どこも地元団体の皆さんが管理して、むかしの農家の暮らし、収穫、遊びなどが体験できるように運営されていることです。
ここも建物が見学できるだけでなく、端午の節句や七夕、お月見などの年中行事のほか、コンサートなども行なわれているようです。

事務室も、草履やら柿の実やらが置かれて、ほっこりする雰囲気が作り出されています。

園内を歩いていると主屋のほかに茶室もあったので「江戸時代の農家で茶室まで持ってるなんて凄い!」と思ったのですが、聞いてみると、これは移築ではなく、後から建てたものだとか。でも民家園の雰囲気にはよくあっています。

場所としては民家園の柵の外なのですが、竹林の手入れをしている区画もあったので、こういったものも農家体験の一環として実施されていると思われます。


さらに園内を東の方へと進むと、住宅地に近いところには少しだけ遊具も置かれていました。でもわざわざ遠くから遊びに来るほどの規模ではなく、ご近所の方か、遠足でやってきた子供たちが使うくらいのサイズです。

でも緑の樹々に包まれて、気持ちの良い遊び場なので、遺跡メインの公園の隅の方に隠れているのが少しもったいないようにも思います。

環壕集落を2/3も切り崩してしまったことは惜しいのですが、その分だけ駅前直結で利便性も高いので、これからずっと、この良さをもっと活かしていって欲しい大塚・歳勝土遺跡公園でした。

(2023年11月訪問)

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