3085/1000 喜屋武公園(沖縄県糸満市)

2022/08/15

沖縄県 糸満市 社寺御嶽 身近な公園 戦争遺跡

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糸満市南端、すなわち沖縄本島南端の喜屋武(キャン)地区は、戦中までは独立した喜屋武村でしたが、沖縄戦で人口の約半分を失ったために行政運営が困難になり、戦後まもなくに同じような境遇の周りの村々と合併したという歴史を持ちます。
この喜屋武村の中心集落の東端、公民館の隣に喜屋武公園があります。

現地の解説板にも既存の拝所などを公園内に取り込みながら整備した様子が描かれているのですが、糸満市が公開している旧喜屋武村集落ガイドマップにも解説があるので、それらから引用しながら記録を整理してみたいと思います。

まず、公園本体からは道一本隔てた飛地のようになっているのですが、上の案内図では「いのりのゾーン」の一部として着色されているのが拝所・ヌンドゥンチ(ヌン殿内)です。
集落ガイドには”ムラの祭祀の中心となる拝所。屋敷の中央に神屋があり、向かって右手に『琉球国由来記』の「喜屋武巫火神」だといわれるヒヌカンがあるとされる”とやや曖昧なことが書かれていますが、確かにヒヌカンを祀っているらしきものは現地に見当たりませんでした。
神屋の中に並んでいた香炉のうちの右端が、ヒヌカンにお供えされたものだったのでしょうか。

そこから道を渡ったところが「いやしのゾーン~七村の森」と名付けられた植栽地で、森の中にウクマヌトゥン(奥間ヌ殿)”敗走した中山の武寧王がこの地に逃げのび〈仲間〉の娘を娶って住んだ屋敷だとされる拝所で、『琉球国由来記』の「奥間之殿」だとされている。子孫と伝わる大幸地門中などが拝んでいる”などの拝所があります。
〈仲間〉は喜屋武の始まりとされる旧家だそうですが〈七村〉が何を指す言葉なのかはわかりません。喜屋武の中に、また小さな7つの村でもあったのでしょうか。

拝所の周りを緑化する目的で、色々な樹種を少しずつ植えて森をつくろうとしていることがわかりますが、ちゃんとした森に育てるためには、そろそろ少し間引きをしたほうが良いと思われる茂り具合です。

この森を南に出ると、公園としての中心地である広場があります。
やや変形ですが50メートル四方くらいの一面の草芝敷きの広場なので、スポーツに、お祭りにと、自由に使える空間です。

その中に、こんもりとしたところがあるので近づいてみると、周りよりも20センチほど高くなった円形のものがありました。
形からは、かつて土俵だったものではないかと思うのですが、それにしては広場の中に唐突にあるので、ぜんぜん違った目的のものかも知れません。

また広場から南に突き出した一角は、縁石で広場とは少しだけ切り離された空間になっています。
現状では広場と同じように一面の草芝になってはいるのですが、広さからしてゲートボール場として設定されているのだろうと思います。

上写真でゲートボール場の向こうに見えている小さな林の中には、シリーヌ殿遺跡と3つの拝所があります。
解説板では「遺跡」と付いているので現に拝む人が無くなってしまった遺跡なのかとも思いましたが、集落ガイドには”シリーヌトゥン(志礼の殿):束辺名のビンタルチーの子孫だという志礼門中が管理するトゥンで、ムラの遙拝所もある。昔カミンチュ(神人)が祠前の石の上で祭祀の衣装に着替えたと伝わる”と書かれていたので、いまも現役バリバリのようです。そうすると、石積みの拝所を含めた周り一帯が「シリーヌ殿遺跡」だと捉えるべきなのでしょうか。

ちなみに、ビンタルチー(保栄茂タルチー)は少し東の束辺名(ツカヘナ)集落に伝説が残る剛力の農夫の名前です。

ここから西へ細道を渡ったところに喜屋武公民館があり、その裏手に、また拝所や防空壕跡のガマなどが集まる一角があります。
ガイドブックによれば、この一帯がナカヌトゥン(中の殿)あるいはトゥンヌマー(殿の庭)と呼ばれる拝所だそうです。

ナカヌトゥン(中の殿):ムラの中心的な拝所のひとつで、近年建てられた祠の入口には「金満之御嶽」と記され、中には石が祀られている。一体はトゥンヌマー(殿の庭)と呼ばれ、ウチマーなどのムラ行事が行われることから『琉球国由来記』の「喜屋武庭之殿」だと考えられ、ナカヌトゥンも「喜屋武之殿」の可能性があるとされている。ヌルが馬に乗る際に踏み台にした石も残っており、行事の参加者が片足をのせてから帰るならわしがある。

ということは、この「金満之御嶽」と表札がついている拝所も、ナカヌトゥンの構成要素の一つだということですね。
金満はキンマンではなく「カニマン」と読み、沖縄の鍛冶神あるいは農耕神であるカニマンを祀るものだと思います。

その一角に残るのが、戦時中に避難にも使われたトゥンヌマー壕。かなり垂直に穴が開いているので、柵や蓋がされて近づけないようになっています。
糸満市のHPには、ここに避難していた方が小学生たちに語った内容が掲載されており、

(前略)1945年3月頃から始まった同壕での避難生活を説明しました。「壕の中は真っ暗で蒸し暑かった。外に出ると危険なので我慢しました。市内の壕を転々と逃げ回り、再びこの壕に戻ってきましたが、役場職員から日本兵が入るから壕から出るように言われ、その後捕虜になりました。」と話し、「戦争はたくさんの人を殺します。絶対に繰り返してはいけません」と何度も繰り返していました。

と記されています。

トゥンヌマーから北を見ると、カラフルな遊具が見えました。

近づいてみると、周りの森や道路からは若干窪地になった一角に、3階建てのスパイラル滑り台を持つ大型遊具が設置されていました。
ここから100メートルほど北には喜屋武小学校があるので、学校の行き帰りに遊ぶには程よい場所です。

ただ園内での位置に関しては、せっかくの大型遊具なので、広場側の明るくてよく目立つところに置いた方が良いようにも思うのですが、少し目立たない場所になっています。
拝所群との取り合いや、広場の面積確保など色々理由があったのかも知れません。

森と拝所に囲まれた喜屋武公園でした。

(2022年4月訪問)

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