No.3083と同じ糸満市パークタウン阿波根の住宅地内に、沖縄戦当時に避難壕として使われたガマ(洞窟)が保存されており、その地上部がちょっとした園地型の公園として整備されています。
とは言え公園として見れば、ざっくり200平米ほどの中に、おそらく元パーゴラだったのに屋根がなくなったと思われるコンクリート柱とベンチ、時計台があるくらいで、それほどの充実度ではありません。
公共施設としての位置づけもよくわからないのですが、糸満市都市公園条例に定めがある公園一覧のなかに「パークタウン阿波根緑地緑道」というのがあるので、それにあたるのかも知れません。
この広場の地下に、ガマが隠れています。
おそらく、住宅地開発に伴ってガマの保存と安全確保を進めるために、地上との距離が近い(穴としては浅い)部分に人工地盤を築いて上面を公園とし、同時にガマ出入口を人工構造物として形成するといった加工が行なわれたのではないかと考えます。
フェンスの扉から中を覗くことはできるものの、通常は立ち入れません。
ガマの出入口なのに、屋敷に魔物が出入りするのを防ぐヒンプンが建てられているのも興味深いところです。
入口の横には解説板が設置されているのですが、当事者の中にはご存命の方もいらっしゃるからでしょうか、非常に臨場感のある解説内容となっています。
■現地の解説板より「チカジクガマ(サキタリガマ)」
このガマは自然洞穴で、総延長が約200mもあります。戦前にガマで酒が造られていたことから、「サキタリガマ」とも呼ばれています。沖縄戦当時(1945年)、ガマには阿波根の住民や他地域からの避難民など数百人が避難していました。また、5月末頃には、那覇警察署長以下の警察官数十人が那覇市からこのガマに移動してきましたが、米軍の接近により、警察官の大部分はさらに南へ移動しました。阿波根の住民や避難民の多くは、逃げ出さずにガマの中に隠れていました。
やがて、この周辺に米軍が陣地を構え、6月11日にはガマが発見されてしまいました。「出てこい、出てこい!」「洞窟を爆破するぞ!」という呼びかけがあり、実際にガス弾を投げ込んできました。そのため人々はガマを出ることを決断し、米軍の保護下に入りました。沖縄戦の間このガマに隠れていたことと、無抵抗で米軍に保護されたことから、避難していた人々のほとんどが無事に生き延びることができました。
フェンスの隙間から中を拝見すると、かなり急な階段が付けられて、ガマの奥へと続いています。
住宅地の地下に数百人が避難できる規模の鍾乳洞が広がっているというのは地盤の面から怖い気がしたのですが、これだけ下がった深いところに広がっているのであれば、戸建て住宅くらいなら大丈夫なようにも思います。
ところでガマの名前なのですが、沖縄風の音便化なら”サケタレ(酒垂)”が変化したものか、あるいは酒をつくっていたと言うならサケタル(酒樽)かなと考えてみたりします。
それ以上にわからないのは「チカジク」で、上写真には「地下軸」と書かれた石碑がありますが、おそらく当て字で、本来は方言で何か意味のある言葉だと思うのですが...
詳しい解説板のわりには疑問が残ったチカジクガマ(サキタリガマ)でした。
(2022年4月訪問)
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