沖縄県の西原町棚原(たなばる)に「歴史公園」と言う名の公園があります。都市公園の種別は西原町で唯一の歴史公園なので間違ってはいないのですが、これだとどのような歴史を表徴しているのかが全くわからないので、できれば地名か遺跡の名前を冠して「●●歴史公園」としていただく方が、ブログ作者のように遠来の者にとってはありがたいです。
でもNo.1275 沖縄市の歴史公園も「歴史公園」が正式名称だったので、沖縄の流儀では「●●」を頭に付けないことになっているのかも知れません。
で、中身が全くわからないので、近くを通りがかった時に立ち寄りました。
すると、現地の案内板にはちゃんと「歴史公園(宮里家屋敷跡)」と書かれていました。これなら「宮里家跡歴史公園」くらいの名称で良さそうなものですが、どうしたものでしょうか。
では順番に見ていきましょう。まずは屋敷の西側を通っている石畳道。
琉球王国の時代、首里と各地方の役所とをつないだ「宿道」の一部だと思うのですが、詳しいことは知りません。急な坂道に人頭大の石を敷き、その隙間に拳大の石を詰める形で作られています。
昭和の終わり頃までは、この坂の下の方までずっと石畳が残っていたそうですが、今は25メートルほどの区間だけになっています。
街道から屋敷の方へと分岐する小道も石畳です。周りの道や区画が改変されているので、この小道が宮里家住宅までの引き込み道なのか、その先も集落内にずっと通じている道なのかはよくわかりません。が、沖縄の村のつくりからして後者なのだろうとは思います。
現在は防風林として植えられたフクギがよく茂り、昼でも暗いほどになっています。
小道から北向きにヒョイッと曲がると、軽く石段があって屋敷内へと入ります。
屋敷の入口には少し背の低いヒンプンがあります。ヒンプンは目隠し塀、風除けなどの実用的な意味と、魔除けとしての役目も兼ねたアイテムで、大抵は大人の胸高くらいの高さがあるのですが、ここのものはかなり背が低くなっています。上部が欠損しているのでしょうか。
縁石で囲われたところが住居跡。ざっと2間四方(8畳間)が2つ連なった南向きの建物です。
沖縄各地で保存展示されている古民家と比べると少し小さいようにも思うのですが、保存展示されるのは立派で取り壊すのがもったいないような家が選ばれていると考えれば、一般的な農家はこれくらいのサイズだったのかも知れません。
西原町の資料によれば、「建物は戦災で破壊されたため戦後は居住者がおらず、屋敷建造物跡等がそのまま残された」となっていますので、もしかすると一家すべてが戦争で亡くなられて長年放置されていたのかも知れません。それならば公園名に名乗りが省略されていることも納得です。
建物の西側にはウァーフル。フル(フール)は豚の飼育小屋を兼ねたトイレのことで、沖縄の農村では昭和になって衛生面から禁止令が出されるまでは一般的なものでした。
衛生と生産に欠かせない施設なのでフール神といういわゆるトイレの神様が宿る場所として、大切にされていたそうです。
呼び名はフールと呼ぶことが多いように思いますが、ここではウァー(豚)を上に重ねてウァーフルと呼んでいるようです。
訪ねてみれば色々とわかることも多かった西原町棚原の歴史公園でした。
(2021年9月訪問)
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