その空襲の際の攻撃目標とされた場所が、ここ明治公園にあたるそうで、園内にそのことを記した記念碑が建てられていました。
■碑文より「長岡空襲爆撃中心点の碑」
米軍は、昭和20(1945)年6月に長岡地域を空襲し、リト・モザイクと呼ばれる精密な航空写真を作成した。そこに爆撃目標範囲となる半径4,000フィート(訳1.2km)の円を描き、その円の中心点を狙って爆撃する作戦をとった。その地点がここ明治公園にあたり、長岡空襲における爆撃中心点である。
同年8月1日の長岡空襲では、この作戦に基づき125機の米軍爆撃機B29が大量の焼夷弾を投下した。それにより市街地の約8割が焼け野原となり、現在わかっているだけで1,486人の尊い命が失われた。
長岡空襲の史実を後世に継承し平和の尊さを伝えるため、ここに碑を建立する。平成28(2016)年8月1日 長岡市
解説文には「空撮写真上に円を描いて、その中心を狙った」とあるのですが、当時の航空機からの爆撃は目視プラス照準器なので、何かしらの上空から見ても目立つものを中心点付近に設定して狙ったと思うのです。
解説板の写真を見ると白っぽい空間があるので、なんとなく学校(校庭)などがあって目標物になったのかな、と考えますがそれ以上のことはわかりません。
ちなみに、今の園内にある互尊文庫の建物は、1967年(昭和42年)の建築だそうですが、市役所のHPによれば「戦災で一度は建物・所蔵資料を失いましたが、内藤伝吉の寄付などにより再建されました」とのことなので、もしかすると消失前の互尊文庫の建物があったのかも知れませんが、爆撃目標物にしてはちょっと小さいかも。
なお、互尊野本恭八郎は江戸時代から続く長岡の豪商を継ぎ、明治時代に銀行や電力会社を興して得た富を社会教育事業に還元した人物です。
互尊文庫は彼の寄付で開館した長岡市で最初の公立図書館ですが、別に大きな市立図書館ができたため、現在は文書資料室などとして使われています。
園内というには微妙に柵で区切られたところに、「立川病院創設の地」という碑もありますので、この病院が狙われたのかも知れません。
公園名の由来は「明治天皇行在所御遺蹟」の碑が示すように、明治天皇が巡幸の途中に立ち寄った場所だからです。
と、石碑のことばかり見てきた明治公園ですが、実際は広場や遊び場もあって日常づかいのできる普通の公園です。
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