2418/1000 安里緑地(沖縄県那覇市)

2020/05/08

沖縄県 身近な公園 戦争遺跡 展望台 那覇市

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安里(あさと)緑地は那覇新都心の南端にあって、旧市街地である安里地区との境界にあたる丘の上、安里配水池の周囲を開放したオープンスペースです。
安里地区側からは管理車両が通る道が通じているのですが、新都心側からは、細い階段でガケを登っていった先にあたります。

丸い配水タンクのまわりを一周するように園路が通されています。
市民利用を重視する公園ではなく緑地ですので、施設としては園路、トイレ、展望塔くらいです。

展望塔は、北東側の一角に設置されています。

かつては丘の上から慶良間諸島がよく見えたため慶良間チージ(チージは沖縄で「頂き」の意味)と呼ばれていたそうですが、今は海の方向には高層マンションが建っていて、とくに何が見えるということでもありません。

展望塔の上から眺めてみても、それほど状況は変わりません。

新都心方向を眺めてみても、普通のビルや商業施設の広告看板ばかりで、まったく眺めるべきものがありません。

しかし、現在のこの丘が有名な理由は展望ではなく、沖縄戦の際の激戦地「シュガーローフ」の一角を保存していることなので、展望塔が役立たずであったとしても許容範囲です。

■現地の解説板より「慶良間チージ(シュガーローフ)」
沖縄戦の激戦地。字安里の北に位置する丘陵地帯に築かれた日本軍の陣地の一つ。日本軍は“すりばち丘”、米軍は“シュガーローフ”と呼んだ。一帯の丘陵地は、日本軍の首里防衛の西の要衝で、米軍の第6海兵師団と激しい攻防戦が展開された。
とくにここ慶良間チージでの攻防は、1945年(昭和20)5月12日から1週間に及び、1日のうち4度も頂上の争奪戦がくりかえされるという激戦の末、18日に至り米軍が制圧した。米軍は死者2,662人と1,289人の極度の精神疲労者を出し、日本軍も学徒隊・住民を含め多数の死傷者を出した。
それ以後、米軍は首里への攻勢を強め、5月27日に首里の第32軍司令部は南部へ撤退した。沖縄戦は、首里攻防戦で事実上決着していたが、多くの住民をまきこんだ南部戦線の悲劇は6月末まで続いた。

No.1245 真嘉比南公園でも触れたシュガーローフ、ハーフムーンヒルと米軍に呼ばれた丘陵地を巡る戦いですが、日本軍にとっては司令部を置いた首里城まで2キロほどの最終防衛ラインの西端にあたり、ここを突破されると那覇市内を掌握されることから、やれるだけやるしかない状況です。
そこで兵力を集中させ、米軍を高地まで引きずり込んでからの一斉砲撃、張り巡らせた地下壕からの奇襲、爆弾を抱いての突撃などの戦術を駆使して米軍を苦しめます。

守るに易く攻めるに難い丘陵地を下から上へと攻める構図となった米軍は、沖縄戦でも一番と言われるほどの激戦で大いに消耗し、戦死者もさることながら、極度の緊張状態で精神を病む兵士が続出し、終戦後もPTSDで悩まされることとなります。

終戦後、米軍の住宅地区となっていた一帯は、昭和の終わり頃に返還され、那覇新都心として開発されました。現在はNo.203 新都心公園をはじめ、いくつもの新しい公園が計画的に配置された明るい街になっています。

あえて激戦地の影を消そうとしているかのような街が眼下に広がる安里緑地でした。

(2020年1月訪問)

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