神社の神輿庫のような建物の脇に、公園の園名板がありました。
天神社なのですが、社殿の横手には石仏が祀られています。
が、この場所にそれほど意味があるわけでもなく、神社前の道路脇に祀られていたものが、道路工事に伴って移設されたもののようです。
■現地の解説板より「天神町の石仏」天神町の石仏という呼称は、中野5丁目東側のこのあたりが昭和41(1966)年まで天神町と呼ばれていたことに由来します。青面金剛像と如意輪観音像は、いずれも元禄期に彫刻・造立されたもので、刻文の「打越村 願主 鈴木保坂」は、当時この地に住んでいた村人と思われます。その人びとが中心になって、庚申講や如意輪観音講をつくり近くの村人を一堂に集めて、講の座をいくども重ねたことでしょう。江戸時代も元禄頃になると、伝統的な信仰行事もしだいに民衆化され、いつしか娯楽的な面が強くなっていったようです。この三体の石仏は、以前、この神社前の道路わきにあったといわれ、講の結成を記念し、あわせて青梅街道から新井薬師へ参拝する人びとの安全を祈り、道しるべもかねて造立されたようです。人々の安全を祈ることにより、その功徳で自分たちが幸せになれるように願った、当時の村人たちの素朴な信仰をうかがうことができます。平成29年12月 中野区教育委員会
石仏の横を通り抜けて社殿の裏手に出ると、そこが小さな遊具広場になっています。
遊具は滑り台、4連ブランコ、鉄棒がありましたが、私が訪ねた時は滑り台が使用停止中でした。
社殿はそれほど大きくないのですが、そばに立つイチョウの樹が社殿の倍ほどの高さにまで育っており、遊具広場はその影になってしまっています。
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