上閉伊郡大槌町(おおつちちょう)は、三陸の海岸沿いにある人口1.1万人ほどの町です。
東日本大震災では、揺れ、津波、津波火災に襲われ、死者・行方不明者・関連死者数をあわせると、当時の人口の8%にあたる1,286人もの方が亡くなっています。
2011年5月の大槌町 |
そんな大槌町の中心部、旧・大槌町役場があった西隣に建てられた複合公共施設「おしゃっち(大槌町文化交流センター)」の隣に、御社地公園があります。
なお、施設の愛称は「おしゃっち」ですが、公園名は「御社地=おしゃち」。
では「御社地」とはなにか、ということですが、現地の解説板を読んでも、今ひとつわかりませんでした。
現地の解説板より「御社地」
御社地は、昭和63年に大槌町の史跡に指定されました。この地の由来については、江戸時代中期に宗教・学問を通じて、大槌町の教民教化に勤しんだ仏教家・菊池祖睛(1729年~1806年)が、諸国遍歴の修行の際に九州大宰府に至り、天神社の分霊を捧持して帰り、天満宮として祀ったところから御社地と名付けられ、その庵を東梅社観旭庵と称し、仏道精進の場にしたとされています。後に祖睛は地内に入定し、「妙法蓮華経」と刻んだ石を墓標としました。
素直に読めば、天満宮と「妙法蓮華経」の墓標があった史跡地のようなのですが、同じく現地の解説板にあった「震災前の御社地」の写真を見ると、池を中心とした公園のようになっています。
おそらくは、いつの時代かに、庵跡の池、墓標など史跡の中心となるものの周りを、役場近くの公園として整備したのではないかと思われます。
■現地の解説板より「震災前の御社地」 |
ということで、生まれ変わった御社地公園も、泉を中心としたサンクンガーデン(沈床式庭園)のようになっています。
ただし、これは中心部を掘り下げたわけではなく、津波浸水対策として町全体が盛土された結果、元からあった泉の部分が周りよりも低くなっているのです。上の写真「震災前の御社地」を見れば、泉と周りの土地は、本来は同じ高さだったことがわかります。
現在は、ざっと3メートルくらい高低差が生じているでしょうか。
自噴泉をあきらめれば周りと同じ地盤高にもできたのでしょうが、あえて低くすることで自噴泉を守るとともに、「高低差」を使って震災前の町の姿を記憶にとどめようとしたものと思います。
また、結果的にすり鉢型になったことで、今までの泉にはなかった「俯瞰」を生み出したことは新しい地域の景観づくりにも役立っていると思います。
ただ、泉そのものは澄んだ水を湛えているのですが、周りよりも低い位置にあるため、ここからの水がせせらぎとして街なかに流れ出ていかない点だけは少し残念なようにも思います。
とは言え、それは余所者の勝手な思い込み。
歴史ある御社地、遊水、そして御旅所などと「おしゃっち」が一体となり、新しい大槌町の歴史を刻んでいってほしい御社地公園でした。
(2019年7月訪問)
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