かつて平安京の造営とともに、正門にあたる羅城門を挟んで東に東寺(とうじ)、西に西寺(さいじ)という2つの官寺が創建されました。東寺は現存しており、五重塔、弘法市などで有名ですが、西寺の方は平安中期以降に火災などによって伽藍が失われ、いつしか廃寺となって、現在に至ります。
これについては、そもそも西寺のあった場所は水はけなどの条件があまり良くなかったという説、また東寺が空海に給預され教王護国寺となって真言宗とともに栄えたのに対して、西寺は官寺のままだったので律令制が廃れるとともに衰退したという説などがあるようです。
そんな西寺の講堂跡地を中心とする唐橋西寺公園。公園のど真ん中にある大きな盛土が、講堂跡にあたる部分です。
盛土の高さは3~4メートル、広さは50メートル四方くらいあるでしょうか。
京都市埋蔵文化財研究所のHPで、少し古い現地説明会資料を見ると、1980年代まではもっと不整形の土塁のようなものが描かれています。
今は長方形に近い形に整形されていますので、1990年代以降に整備されたようです。
■現地の解説板より「史跡西寺跡」
史跡指定 大正10年3月3日
追加指定 昭和41年3月22日
西寺は、平安京への遷都から間もない延暦15年(796)頃から、平安京の入り口にあたる羅城門の西側に、東側の東寺(教王護国寺)と対称に造営された官寺である。金堂、講堂(屋根には緑釉瓦が葺かれていた)を中心として南大門、中門、五重塔、僧坊、食堂などの建物が建ち並び、国家の寺として隆盛を誇っていた。
しかし、西寺は東寺に比べて早くから衰え、天福元年(1233)には塔も焼失し、以後は再興されることなく地中に埋もれてしまった。昭和34年以来も数多くの発掘調査が実施されて、建物跡やその屋根に葺かれた瓦、使われていた土器などが次々と発見され、この周辺の地下に平安時代の伽藍がほぼそのまま眠っていることが明らかになった。
かつての寺域は、東西2町(約250m)南北4町(約510m)に及び、僧坊・講堂・金堂・中門などの主要伽藍跡は、現在この説明板の建つ唐橋西寺公園(講堂跡が公園中央に土壇として残る)から、南の唐橋小学校にかけて見つかり、今も地下に保存されている。
これらは平安時代初期の寺院として貴重なだけでなく、東寺とともに平安京を復原する上でもたいへん重要な遺構である。この貴重な遺跡を後世に継承するため、近隣の住宅地においても、建て替え等の際には地下の遺跡を傷めないよう細心の注意が払われている。
京都市
頂上に登ってみると、史跡標柱や礎石などがありました。
大正時代に建てられた史跡標柱。すでに100年近くが経過し、これ自体が歴史的な価値を帯びてきています。
礎石は、むき出しのもの、埋められているものなどがありました。
まぁ、実際に貴重な遺構は地下に埋まっているので、公園としては、ちょうどよい遊び場といった感じの盛土山です。
盛土山の北側に回ると、クスノキなどが複列に植えられた並木がありました。
なんとなく、お寺の廻廊を想像させる遺構表示のようにも見えますが、現地ではとくに解説もなく、真相はわかりませんでした。
一本おきに間伐されている姿も謎。
抜根しないで切り株を残しておくと、かえって危ないようにも思うのですが、予算上の都合でしょうか。
そして、講堂跡からは見えない隅の方に、一般的な公園遊具も置かれています。
遊具は、コンクリート製の滑り台、ブランコ、シーソー、砂場、揺れる動物遊具など。
砂場には、これも京都市特有の猫よけ装置がありました。
こういう装置って、なんか「効き目は条件次第」みたいな思い込みがあるのですが、京都の公園では、他都市には多い砂場カバーのネットを見かけることが少ないので、やはり効き目があるのでしょう。
そして、こちらはプールの遺跡。
1970年代までは公園内プール、もしくは南に隣接する小学校のプールとして利用されていたようです。
1メートルほどの盛土の上にプールがあるのですが、水槽部分には土が入れられて、とくに何にも使えない場所になっていました。
このまま放っておいてももったいないので、早く取り壊すか、そうでなければ入って遊べるような場所にしたいところですが、No.754 南岩本公園でも同じような扱いだったので、すぐにはそうできない理由があるのでしょう。きっと。
色々あって面白い、唐橋西寺公園でした。
(2019年6月訪問)
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