今日は討ち入りの日。
なので、赤穂浪士の皆さんの勤務先だった赤穂城跡を訪ねます。
ちなみに討ち入られた先の吉良上野介の屋敷跡が、No.143 本所松坂町公園です。
1958年大映映画「忠臣蔵」より 大石内蔵助は長谷川一夫 |
赤穂城の場所には室町時代から古城があったらしいのですが、近世城郭としては1649年(慶安2年)から築城工事が始まったとのことで(国史跡赤穂城跡公式Webサイトによる)、比較的遅くにできた城だと言えます。
当時は熊見川(千種川)河口横、海に突き出すように作られた海城でしたが、現在は周囲が埋め立てられて市街化しており、平城のような雰囲気になっています。下は園内にあった現在の城跡の案内図の方位を北にして掲載したもの。
これが赤穂浪士の時代には、こんな感じだったようです。かなり海に突き出していますね。
現在は国史跡に指定され、また城内の庭園は国名勝にも指定されています。と同時に、都市公園でもあり、全域が入場無料で公開されています。
また日本の歴史公園100選、日本100名城にも選ばれています。
がしかし、本ブログでは、こうした大きな公園、アイテムの多い公園を記事にするのは苦手なので、気になったところをサラッとご紹介。
まずは、お城の中心である本丸。北側から門をくぐって中に入ります。
本丸には天守台が残るほか、本丸御殿が平面的に復元されています。また意外に珍しい本丸内の庭園も復元整備されており、好きな人なら見ごたえ十分です。
御殿の間取りを平面的に復元する手法は、同じ兵庫県の篠山城跡などでも採用されています。建物復元のように立体的な豪華絢爛さは再現できないのですが、簡易な手法の割には建物の広さがひと目で分かるという利点があります。
天守台の上から、本丸御殿を眺めたところ。これでも6割くらいしか写真に収まっていません。
少し角度を変えて、本丸庭園を眺めたところ。池泉式庭園を満たしている水は、海からの水ではなく、No.1973 いきつぎ広場で登場した赤穂旧上水道を使ったもののようです。
本丸御殿にも、水道が引かれています。
日本庭園は上から見下ろすものでもないので、お殿様の目線まで下りてきたのが下の写真。
しかし実は、現在では遠景に近代的な工場などの建物が目に入るため、上手に視線をそらして撮影しなければならなくなっています。
そして城内にはもう一つ、二之丸にも池泉回遊式の庭園があり、こちらも復元されています。
ここはもう10年くらい前からずっと復元工事中なのですが、今回(2018年11月)に訪ねた折も、奥の方はまだ工事中のようでした。
城の南端にあたるのが、水手門。城から直接海に出られるようなった海城独特の門です。
しかし今は城の南も市街地になっているため、実用上の理由でデッキ通路が作られているのが見た目にわかりにくいところ。
この門を入るとすぐ米倉があり、船荷の積み下ろしが楽になっています。なかなか機能的。
一転して、次は城内にある赤穂大石神社。ここは公園区域から除外されているのではないかと思われます。
もともと大石内蔵助の屋敷だった敷地の一部を使って建てられているのですが、Wikipediaによれば、まず赤穂浪士を祀る大石神社として大正元年に創建された後、藩主・浅野家三代が祭神に加わり、また浅野家の次に藩主となった森家のご先祖を祀っていた赤穂神社が合祀されたことで赤穂大石神社になったということです。
でも存在感としては、大石内蔵助を始めとする赤穂浪士が圧倒的。
その証拠に、参道には赤穂浪士の石像がずらりと並びます。
もっとも、47人もが似たような装束で並んでいるので、一人ひとりの特徴はよくわかりません。多人数アイドルグループも、中心メンバー数名のほかはよくわからないのと一緒です。
みんなが槍や刀を持っている中で、掛矢を持っている岡野金右衛門が多少目立っているでしょうか。
この大石神社の隣、すなわち大石内蔵助の屋敷跡は、園内のほかの場所とはちがって、柵に囲まれて、とくに何にも使われない草っ原になっています。
そのうち何らかの復元整備が予定されているのかも知れません。
そのほかにも、城跡公園らしい園地や広場などもあるのですが、全部は書ききれない赤穂城跡公園でした。
●国史跡赤穂城跡公式Webサイト(赤穂市教育委員会)はこちら
(2018年11月訪問)
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