大阪市南部の平野(ひらの)は、平安時代に開拓されたと伝えられ、戦国時代には土塁と環濠とで囲まれた「環濠都市」として栄えた町です。大坂の陣で一度は灰燼に帰すのですが、江戸時代になって復興された際の町割りが今も残っています。
環濠には町への出入りをコントロールする13ヵ所の木戸口があったそうで、その一つであり「樋ノ尻口」は、今も交番が守りを固めています。
そしてその奥、高木が見えているところが現在の平野公園です。
交番の隣には、風格のある地蔵堂。いつの頃のものかはわかりませんが、少なくとも大坂の陣の際には一度爆破されたらしいです(伝説)。
●現地の解説板より「平野郷十三口-樋ノ尻口地蔵」
中世、堺とともに自治都市として栄えた平野郷は、戦国時代には自治と自衛のため、濠と土塁をめぐらした、俗に「環濠集落」と呼ばれる形態をもっていた。いま杭全神社の東北部と、赤留比売命(あかるひめのみこと)神社の背後にその面影を残している。
濠のあいだには大小13の木戸口があり、摂河泉各方面へ道路が放射状に延びていた。
樋ノ尻口門は奈良街道や久宝寺、八尾につらなるもので、木戸としては大きい方であった。門のそばにはいずれも地蔵堂や遠見櫓、門番屋敷があった。この地蔵堂も樋ノ尻口門の傍らにあったもので、郷から外に出るときは一身の加護を祈り、外からの変事はこの入口で退散させようとした祈願のあらわれであろう。
大坂夏之陣の元和元年(1615)5月7日、徳川家康の樋ノ尻口通過を予測した真田幸村は、この地蔵堂に地雷を仕掛け大坂城へ引き上げた。
予想通り家康が来て、ここで休憩したが、ちょっと座を外したときに地雷が爆発し、危うく命拾いしたという伝説があり、現在全興寺(せんこうじ)に祀られている首地蔵は、このときの爆発で吹き飛んだきた樋ノ尻地蔵の首と伝えられている。
上の解説板にあった赤留比売命(あかるひめのみこと)神社は、公園西側の隣接地にありますが、園路から自在に行き来できる構造になっています。
こちらが社殿。
戦国時代の環濠集落よりも歴史は古く、この地を開発した渡来氏族の氏神だったそうです。
●現地の解説板より「赤留比売命神社-平野環濠都市遺跡」
当社の祭神、赤留比売命は新羅から来た女神で天之日矛(あめのひぼこ)の妻と伝える。
当地を開発した渡来氏族の氏神として、その創建は詳かではないが、平安時代につくられた延喜式神名帳(えんぎしきしんめいちょう)に当社が記載されている。
俗に三十歩社(さんじゅうぶしゃ)と呼ばれるのは、古来から祈雨の神とされ、室町時代の応永年間に干ばつがあり、僧の覚証(かくしょう)が雨乞いのため、法華経三十部を読経し霊験を得た故事によるとか、当時の境内地の広さが三十歩であったによると伝える。
またかつて住吉大社の末社であった由縁で、7月31日に行われる同社の例大祭「荒和大祓」(あらにごのおおはらい)に、当地の七名家(ひちみょうけ)より桔梗の造花を捧げる慣例となっている。
明治30年に背戸口町より移された境内末社、天満宮、琴平神社とともに、大正3年、杭全神社境外末社となり今日に至っている。社殿背後の土塁と松山池は環濠集落の名残りが見られる数少ない場所の一つである。
そして、社殿の背後に続く高さ3~4メートルほどの土堤こそが、かつての環濠とセットになっていた土塁の名残だそうです。濠を掘った際に出る土を盛り上げたものですね。
土堤の反対側から。こちらは公園的な植栽地に改修されています。
さらに土堤の上から園内を眺めると、環濠の名残だという池が見えます。
現在は、池とは言うもののコンクリートで固められた上に、水が抜かれていました。すなわち、すでに「環濠の名残の池の名残」となっています。せっかく紅葉が水面に映えるラクウショウ(ヌマスギ)をたくさん植えていますが、水がなくては魅力は半減です。
この池について、園内の解説にはあまり詳しく書かれていないのですが、「古くからの集落の隣接地に約1.5ヘクタール近い大きさの公園を整備できたのは、池を埋め立てたからだろう」と思って調べてみると、終戦後の1948年(昭和23年)に米軍が撮影した空中写真に、現公園の半分ほどを占める大きさの池が写っていました。
国土地理院「地図・空中写真閲覧サービス」より USA-M18-1・コース番号:M18-1/写真番号:150/ 撮影年月日:1948/02/20(昭23) |
さらに、この池については大阪市立図書館のサイトに記事がありました。
●大阪市立図書館「平野区に関するよくある質問と回答」より「平野公園(旧松山公園について」現平野公園(平野区平野東2丁目 14,778平方メートル)は、以前公園の中にあった松山池にちなみ、戦前は松山公園と呼ばれていました。松山池はかつての平野環濠跡であり、明治初年には、東西0.24丁(約26メートル)、南北2.19丁(約238メートル)、周囲5.26丁(約573メートル)の面積があり、水深は8尺(約2.4メートル)と記録されています。江戸時代から明治初期ごろは、灌漑用水として使用されていましたが、昭和3(1928)年1月、杭全神社所有地の三十歩神社周辺の土地を無償で使用し、平野公園が造成されたため、公園の一部となりました。松山池のほとりは、桜の名所として親しまれ、池には橋も架けられて貸ボートがあり、市民の憩いの場でした。平野小学校の児童たちが校外学習や運動会などを行った思い出も伝えられています。第二次世界大戦中には、桜の木は切られて薪となり、橋も壊されて一度は荒れてしまったといいます。昭和44(1969)年に橋の架け替えや噴水の増改修等、大改装が行われた際、池のほとんどは埋め立てられ、松山池は姿を消しました。
また園内には、上記の引用中にある「昭和44(1969)年の大改装」に触れた記念碑もありました。これによると、その大改装から5年後にさらに花の公園としての整備が行われたとのことです。
碑としては1986年(昭和61年)に建てられたものですが、なぜか碑文はカタカナ混じりの文体になっています。
●現地の碑文より平野公園ハ昔カラ桜ノ名所トシテ由緒アル公園デシタガ戦後荒レ果テタル現所ヲ見テ昭和42年ニ某氏地域役員ノ方々ニヨリ平野公園愛護会ヲ結成サレ大阪市ニ請願シ昭和44年ニ改良工事ノ完成シサラニ昭和49年ニ花ノ公園トシテ整備サレ現在ノ立派ナ平野公園ニナリココニ愛護会結成20周年ニナリ記念碑ヲ建立ス
昭和61年4月吉日 平野公園愛護会役員有志一同
このように資料を並べてみると、おそらくはこの土堤が、かつてはマツに覆われて「松山」と呼ばれていたのではないかと思います。
このように歴史的背景を持ち、古くから地域を代表する公園ですので、園内にはほかにも色々な石碑・記念物があります。
なかでもこちら、現代の河内音頭の発祥の地とされている碑が目を引きました(実際に建っている場所は赤留比売命神社の境内ですが)。平野郷自体は摂津国住吉郡に属しますが、平野川を隔てたすぐ北側は河内国渋川郡ですので、風俗としてはほぼ河内だったのでしょう。
●現地の碑文より「河内音頭宗家初音家礎之地」大阪の夏を彩り、賑やかす「河内音頭」。この仏供養の盆踊り音頭が、今日、重厚な語りに加えリズミカルな旋律で全国津々浦々まで知られるに至っている。それは、明治、大正、昭和、平成と継承された。わが国近代の生活文化形成のなかで育てられ、磨きあげられた民衆芸能でもある。とりわけ中世以来の自由都市の伝統に抱かれた平野郷の地で、昭和のはじめ、初音家太三郎にひきいられた初音家五人衆によって、ここ松山公園(現平野公園)を拠点にして「現代の河内音頭」の礎が築かれてから70余年の歴史が刻まれるにいたった。今日、河内音頭は大阪を代表する盆踊り音頭から、わが国を代表する芸能としても高い評価がされ、それは河内音頭が平野郷の創造力あふれた潜在的な文化性をも伝承しているからでもある。平成10年7月吉日河内音頭宗家初音家礎之地顕彰記念碑建立委員会委員長 初音家賢次
と、ここまで歴史的な経過などを中心に書いてきましたが、園内は約1.5ヘクタールもあって、少年野球なら2面同時に取れるくらい大きなグラウンドと、石の山遊具を中心とした遊具広場、噴水などがあります。
これらの記事も書きたいのですが、私が訪れた時間帯には親子連れから小学生までが公園の至る所で遊んでいて、思うように写真が撮れませんでした。
古いものが中心ですが、遊具広場もかなり充実していたのですが...
それから、地域のボランティアの方々による花づくり、花壇づくりもしっかりと行われており、クリスマスからお正月にかけての飾り付けがされていました。
ただ、なにぶん「花の公園」として再整備されたという1974年(昭和49年)からでも40年以上が経過しているため、施設や植栽の老朽化・老齢化は避けられないところです。
園路や外周道路に近いところで結構な本数の高木が伐られていたのは、樹木の老齢化に伴う枝折れや倒木被害を防ぐための対策ではないかと思われます。
歴史の古い地区にある、歴史の古い公園なだけに、一度では語りきれない平野公園でした。
(2017年12月訪問)
0 件のコメント:
コメントを投稿