それでも公園内は北が一段高く、南が低い地形になっているので、これが僅かに残った谷の名残なのかも知れません。
そこで幕末から明治にかけて発刊された『尾張名所図会』を国立国会図書館のデジタルコレクションで見てみると、前編巻2愛知郡に山吹谷が登場していました。
上記デジタルコレクション資料より引用 |
地の文には、
「片端の東坂下なる鳥屋筋の辺は、昔の那古野山の谷合にて、暮春の比は遊蕩の諸人、酒さかなを携え来り、山吹の花を愛でつつ歌ひ舞ひなどせし地なるが、いつしか武家の宅地となりて、今なほ山吹のところどころに残れるは昔のおもかげぞかし」と書かれています。
絵の方を見ますと、確かに山吹に囲まれた野原に毛氈を敷いて、ご馳走の入った重箱の周りで武家姿の人が歌い舞っていますね。
さて、現代に戻って公園の姿を。
冒頭に述べたように、もう谷というほどの地形は残っていないのですが、上下に分かれた下段部分が幼児向けの遊具スペースになっており、小ぶりな滑り台、バケット式のブランコ、鉄棒などが設置されています。
そこから上段に向かうには、こちらのガケ滑り台の横にある階段を登るか、
もうちょっと趣のある細道を歩いて行くことになります。
上段には大きな広場があって、外周部に複合遊具やブランコが散在する形になっています。また、もう一面、フェンスに囲まれてボール遊びなどができる多目的広場もあります。
こちらがフェンスに囲まれた方の広場。写真にして並べると、とくに違いは読み取れません。
複合遊具は、砦プラス滑り台型。下段にあった幼児向けのものよりも大ぶりですが、内容がシンプルなので幼児でも使えそうです。
鉄棒も、下段にあったものとは違って大人用の高さがあります。
もう一つ、25メートルくらいの長さがあるジップラインも魅力的です。
この公園も区画整理事業で生まれた公園ですが、もともとは名古屋市立第3高等女学校が付近にあったようで、その記念碑が設置されていました。
ほかにも「魚」という石彫や、小学生の描いたプレート画などもあって、整備にあたって地域の方々の色々な思いが詰め込まれたことがわかります。
そうした思いが募る背景には、やはり名古屋城下で知られた花の名所の名前を冠しているということが影響しているのではないかと思う山吹谷公園でした。
(2017年1月訪問)
尾張名所図会の次の子供遊具の二枚目と三枚目の間の写真のコメント(冗談)となってますが、【上段】の変換間違いですね!
返信削除匿名さま
返信削除こんにちは、ブログ作者です。
ご指摘ありがとうございます。さっそく修正しました。
色々とご気付きの点があろうかと思いますが、優しい気持ちで、今後とも本ブログをよろしくお願い致します。m(_ _)m