そのコックさんがいる交差点が菊屋橋交差点で、そこから200メートルほど南西に行ったところに菊屋橋公園があります。
そもそもは、コックさんの足元を南北に通っている道路が元は堀川で、そこに架かっていた橋の名が菊屋橋だったそうです。
現在の菊屋橋公園は上述の堀川からは離れた筋に面していますので、菊屋橋という橋と直接の関係があるというよりも、その橋名から取られた旧町名を名乗る公園と考えたほうが良さそうです。
道路角地に面した細長い長方形の敷地で、接道部に視界を遮る柵や樹木がないため、どこからでも一目で園内を見渡せます。
どちらかと言えば広場型の公園で、幼児向けの滑り台やブランコもありますが、長く滞在して何かをするというよりは、通りがかりにちょっと立ち寄って休憩するような仕立てになっています。
立ち寄りの鍵になるのが植え込みの柵を兼ねた石造ベンチで、わたしが滞在していた僅かな時間でも、タバコを吸う人、スマホを触る人、犬の散歩中の人などが入れ替わり立ち代り、休憩していました。
ちなみにこちらの桜の木は、1987年(昭和62年)当時に100歳の長寿を迎えた方の記念植樹として植えられたものだとか。
公園施設は30年も経っているようには見えないので、その後に全面的な改修が行われたものと見受けられます。
そして、交差点に近い目立つ場所に「柄井川柳碑」が建てられています。
柄井川柳は、後に「川柳」と呼ばれる文芸ジャンルを確立した人物ですが、自分自身で句を読むのではなく、人の作品を評価することを通じて隆盛を導いたという点でも稀有な人物だと言えます。
●現地の解説板より「川柳ゆかりの地」
台東区元浅草3-20-6 区立菊屋橋公園柄井川柳 (初代)は享保3年(1718)生まれ、通称を八右衛門、名を正通という。
柄井家は祖父図書の代から浅草龍宝寺門前の名主を務めており、川柳も宝暦5年(1755)から龍宝寺門前の名主となった。
その2年後、宝暦7年(1757)から前句付の点者(選者)として活躍している。寛政2年(1790)死去。墓は龍宝寺( 天台宗、蔵前4-36-7) にあり、都指定旧跡となっている。
前句付は出題された前句(主に七七の短句)に付句(主に五七五の長句)をつけるもので、川柳が点者を務める万句合(まんくあわせ)は広く人気を集めた。明和2年(1765)、川柳の選句集『俳風柳多留(はいふうやなぎだる)』初編の刊行を一つの契機として、付句が独立した文芸となっていった。この文芸は「川柳点」「狂句」などと呼ばれたが、明治中期から「川柳」の名称が用いられるようになった。個人の号名が文芸の呼称となるのは稀有のことである。
この地域で活躍した柄井川柳の偉業を記念するため、有志の運動により当公園には平成元年3月に柳が植樹され、平成4年4月には柄井川柳碑が建立された。
平成17年3月 台東区教育委員会
端々に地域に密着している様子が読み取れる菊屋橋公園でした。
(2016年12月訪問)
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