芦屋市の楠児童遊園にはNo.426で訪れましたが、これが全面的に大改修をされて、2016年(平成28年)の春にリニューアルオープンをしました。施設だけでなく地形も改変されて、まったくと言って良いほどに姿が変わりましたので、改めて取り上げてみたいと思います。
どれくらい変わったかは、写真を見比べれば一目瞭然(出入り口の位置も変わったため撮影ポイントはやや異なりますが)。
以前は敷地の手前半分くらいが石碑のための前庭、3~4メートルの高低差がある後ろ半分が滑り台とブランコのある遊び場になっていたのですが、石碑を道沿いに移設したうえで、上段部分を大きく削り取ることで広場を最大限に広げています。
リニューアル後(2016年撮影) |
リニューアル前(2013年撮影) |
そして、残った高低差を利用して、大きなコンクリート研ぎ出しの滑り台を新設しています。これは子供たちに大人気でした。
もともと小さな公園ですが、改修によって園内のどこからでも全体を見渡せるようになって、見違えるように明るくなりました。そこに人が溢れている姿を見ると、現時点では大成功のリニューアルだと言えます。
広場をグルっと囲むコンクリートの壁は、どこでもベンチ代わりに腰掛けられるようにしたものです。細かなところですが、最近はホームレス対策などで公園からベンチが少なくなる傾向にあるので、これは嬉しいところです。
ほかにも、以前はなかったパーゴラも設置されており、交通量の多い国道沿いで、ちょっと一休みできるようになりました。
しかし色々と新しくしながらも、大きなクスノキを頑張って保存しているなど、元々あったものを活かすことは忘れていません。
一方、楠木正成を称える大楠公戦跡碑は国道沿いの一角に移され、以前よりも目立つようになりました。鳥居こそなくなりましたが、碑の建立経緯についての解説板が付けられて、わかりやすくなったと思います。
ここでも、以前の公園で使われていた石材を石段などに再利用しており、使えるものは使う、残せるものは残すという姿勢が貫かれています。
石碑の横には、かつて碑を建てるための土地を寄付した地元の名士・斎藤幾太の銅像台座も移設されています。銅像そのものは太平洋戦争中の金属供出で失われ、はや70年以上経つのに台座だけを移設までして残す意味が今ひとつわからないのですが、とにかく色々と大事にしたいという意思は伝わってきました。
そこまで大事にしたいのなら、解説板の中で「斎藤幾多」と誤植をしているところは、気がついたら直して欲しいところです。
●現地の解説板より「打出合戦あと」
「打出」の地で合戦があったことは、『太平記』等に記されていますが、その地名は西国街道を旅した人々が京都を出発し、はじめて海にうち出るということに由来していると考えられています。
打出合戦は、今から650年以上前に、このあたりを舞台にして起こりました。建武3年(1336)2月10日に、公家中心の政治の復興を目指す後醍醐天皇を支持する楠木正成と、新たな武家政権の樹立を目指す足利尊氏の両軍が、この地で激突したのです。戦いの結果は、足利軍が兵庫に敗走したことによって、楠木軍の勝利に終わりました。
昭和9年(1934)、精道村教化団体連合会は楠公600年祭記念事業としてこの石碑の建立を企画し、必要な経費は村内の有志が寄附し、土地は地元の名士である斎藤幾太氏からの寄附を受け、昭和10年(1935)2月に竣工しました。石碑の題字「大楠公戦跡」の文字は、当時の陸軍大将、本庄繁の筆によります。
昭和19年(1944)の町名改正では、この戦跡碑をもとに「打出楠町」となり、昭和43年(1968)以来の住居表示制度によって現在の「楠町」となりました。大楠公戦跡碑と斎藤幾太氏胸像(戦時中に供出され土台部のみ現存)を、市の公園改修事業にともない現在の場所に移設しました。
平成28年3月 芦屋市
転機注釈:解説版では「斉藤幾太」は、すべて「斉藤幾多」と記載
(2016年5月訪問)【2022年4月追記】
久しぶりに通りがかったので確認してみると、幾多の誤字はすべて訂正されていました。
気がついてくれて良かったです。
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